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あちこちから、幼い子どもたちを案じ、危惧する声が聞こえます。親
なら、また思いやり深い人なら誰しも、どの子どもたちも平和の内に、
心豊かで、愛情深く、健康に育ち、そして成長してゆくことを願うも
のでしょう。多少不器用でも、皆と何もかも一緒でなくても構わない
のです。ふと出会う彼らの微笑み、そして快活に弾む、ほがらかな笑
い声がある時、私たちは胸の奥で滲むように灯る、あの不思議な暖か
さを覚えます。

彼らからそれを奪ってしまわないように、そして私たち自らもその繊
細な感受性を失ってしまわないようにするためには、普段の生活の中
での全面的な配慮と注意が必要です。特に子どもたちを取り囲んでい
る私たち大人こそが、自分自身の心と行為に一番に気をつけてなくて
はなりません。なぜならまだ幼い子どもたちは、すぐ側にいる人たち
の精神状態というものにとても敏感ですし、また影響も受けやすいか
らです。

私たちは今までもここで、それぞれの心に存在している「私」という
もの、その思考や感情の動きなどについて見つめ、調べてきましたが、
その実態をさらに明確にし、理解を深めるために、それが物理的な脳
内の活動であるということに注意して、再び観察してみることにしま
しょう。

それは私たちの心の中で「私」がどのように生成されてゆき、また同
時に幼い子ども時代に備わっていた、あの他者との一体感、全的な知
覚というものが、いったいどうして失われてしまうのか、その過程を
調べてみることでもあります。

まず、生まれてきた赤ちゃんや、まだ小さな子どもの脳内では、日々
いろんな体験を通してものごとが記録されていきます。無駄な情報を
そぎ落とすアップデート的更新を行いながら、必要な知識を蓄え、区
別や判断する思考が活発に働いています。これは、日常の中でさまざ
まなものを感じ、自分の存在と周囲にあるものの関連性を読み取り、
確認しようとする<認識>のためのごく自然なプロセスです。

この認識作業というのは、単に目の前に現れた刺激に対して受動的に
反応しているだけではありません。泣いたり笑ったり、触ったり、口
に入れて舐めてみたり、耳をすませたり、身体を動かしてみたりとい
うそのほとんどの行為を、自発的に行っています。いろんなものとの
触れ合い、動きや遊びを通して、その子なりにその都度、この世界に
ついて理解を深めようとしているのです。

そして成長するとともに、最初はよくわからなかった関係の中での相
違についても、だんだんと気づき、わかるようになってきます。それ
は、友達や他の人たちと自分の間には、容姿や運動能力、また知識の
内容や、生環境の違いがある、ということの認識です。

そして、ここが重要な地点なのですが、そのような相違に子どもたち
が気づいた後、もしさらに比較を推し進め、皆とは違うその子の特徴
を強調して聞かせたり、理想的なイメージを与えたり、努力させたり、
また周囲にいる大人、親近者自身もがその傾向にあるならどうでしょ
うか?

それはまさに自己中心的な見方や考え方を、幼い頃から強めてしまう
ことになるのではないでしょうか? 「○○ちゃんは△△だからこう
しなさい」とか、「これぐらいのことできるはず」という決めつけた
意見や期待を押しつけ、あれこれ指図することは、その子の脳に勝手
にイメージを植えつけているだけで、その子が自発的にありのままを
感じるための大切な機会と、その素質を奪ってしまうことになりかね
ません。

子どもにとっては無自覚かもしれませんが、度々行われるそのような
イメージの刷り込みや、ものごとに対する分離的な捉え方によって、
いつも誰かと比べられたり、競り合うように促されていると、幼い頃
に感じていたあの自由、生の全的な運動からその子の精神を引き離し、
個々の思想や観念という限られた世界にそれを閉じ込めてしまうので
す。

そこには常にあれこれのイメージがあり、実際のありのままとの間に
は、深い溝ができています。その葛藤や矛盾から、すぐには消化でき
ないような怒り、悲しみ、無念さといった感情も生まれ、ちっともま
とまりがありません。脳の内側では分割され、偏った思考の処理が昼
も夜も絶え間なく、ぎくしゃくと進行し、そしてさらにその隙間を埋
めるための何かを探し求めるのです。

では、この二つの間に広がる透明な溝を、しっかりと覗き込んでみま
しょう。そこにはいったい何があるのでしょうか? ぐるぐると渦巻
く欲望でしょうか? 努力や忍耐、意志といった強靭な精神力でしょ
うか? それとも居心地の悪さをごまかそうとする欺瞞か、または、
なるようにしかならないと無視を決め込む図太さか、もしくはただ過
ぎてゆく時間でしょうか?

しかし、いずれにしてもそのような宙ぶらりの状態ではどうしても落
ち着けず、不安を感じてくるものでしょう。なので当然、安定や安心
感を欲するようになるわけですが、それを満たすためのとりあえずの
方法は、過去の経験の、同じ記憶に囲まれていることか、あるイメー
ジや言葉を脳内で繰り返すというやり方です。

ちなみに、信念と呼ばれているものも、実はこのようなことなのです。
その代表的なものとして挙げられるのが、「私」なのではないでしょ
うか? というのも私たちは皆、「私」を信じているからです。まぁ
時々は自信をなくすこともあるかもしれませんが、でも、その存在を
信じて生きています。だから死ぬのは嫌とか、怖いとか思うわけで、
それは云うまでもないほど当たり前とされた、全く一般的な考え方な
のです。

では、精神の安定を保つために行っている、この思考の流れをもう少
し詳しく見てみましょう。脳内ではある特定の記憶や情報を、一切更
新しないで蓄えたまま、<反復>や<回顧>の運動を続けます。この
ようにエネルギーが常に一定のパターン的な軌道を取っていると、脳
内では、まるで全ての思考を扱っている、管制司令官のようなものが
錯覚として感知されるようになります。そして私たちはこれを「私」
と表現しているのです。

「私」は、この今までに得た経験や知識を脳内で想い起こすという単
純な流れの中で、幽霊のように存在しています。あの時ああしたこう
した、ああ云ったこう云ったと思い返すこと自体が「私」を作りだす
もとなのですが、さて、脳内でいつの間にやら定着し、勢いづいてし
まったこの流れに、またさらに拍車をかけている、何か大きな根本的
要因があるのではないでしょうか?

それは、私たちがあるものを見る時、読む時、ある人に会う時、それ
が新しくても古くても、自分とは異なり分離した<対象者・対象物>
として見なすこと、<分断視>に慣れきってしまっているということ
です。脳でのその動きは極めて自動的、オートマチックなものになっ
ているのです。

分断視は誰かや何かに出会うや否や、間髪入れずに、そして無意識に
行われています。これが私たちの日常であり、すでにかなり根深く私
たちの脳に組み込まれてしまっているのです。実際、誰もが、この世
の中は「私」と「私ではないもの」で出来ていると思っているのでは
ないでしょうか?

そのように分断視は常識とされているので、誰も気にも止めませんが、
しかしこのようなものの見方では、思考が止み、静かになることなど
絶対にないのです。なぜなら思考はいつも「私」の存在を想い起こし、
確認し、次なる行動を探らなければならないからです。「今まではこ
うだったから、次はこうしよう、こうありたい、どうしたらいいか」
‥と独りごち、絶えず向かうべき方向をイメージします。

目指すべき目標や、理想的イメージを持つところには必ず「私」がい
ますが、時にそれは心理的に負担になって苦しくなったり、自分の決
定に迷いを感じたりするものです。これが葛藤です。私たちは幼い頃
から目標を持ちなさい、それをやり遂げなさいと云われ、生きるには
目標が必要であると、またその達成のためには頑張らなければ、努力
しなければと云われてきたかもしれません。しかし、ここではそれに
疑問を呈します。

なぜならその状態では、脳内で思考は常にある特定のイメージに頼っ
ていなければならないからです。そのイメージが作られたのはつい先
ほどか、あるいはずっと前なのかもしれませんが、とにかくそれは、
過去に縛られているということを意味します。エネルギーはそれらを
想起、維持するために費やされ、本来スムーズであるはずの流れはぎ
こちなく滞り、脳内を活きいきと自由に駆け巡ることができないので
す。

これは実際、ほとんどの人にあてはまる、いわば脳障害の一つである
と云えるのではないでしょうか? 思考は脳の中に存在する一機能で
あって、けっして邪悪なものではないはずですが、問題は、私たちが
思考の捕われの身になってしまっていることにあるのです。

さて、ここでもう一度最初の地点に戻りましょう。私たちが肉体的に、
または心理的にかもしれませんが、周囲との相違を認めた時、肝心な
のはその受け止め方です。それは、ただのんきに「では相手のありの
ままを受け容れよう」と云って済ませることではありません。見るべ
きなのはまず、関係の中での自分の心の動き、受け止め方、そこに見
えてくる葛藤や、反応の仕方なのです。

今の私たちの社会やそこでの活動は、思想と観念にことごとくまみれ
て出来上がったものです。それは私たちの意識の結晶であり、顕現化
したものです。いたる所で分離と分断、差別があり、葛藤とそこから
生まれる悲しみ、暴力と防衛の構図です。

そしてまた私たちはそれらから少しでも逃れるため、人間が考え作り
出したマネー、権力、家族、国家、宗教、神、思想、法律といった物
や制度に暗に身を委ねるか、または習慣的な嗜好や娯楽、催しなどに
よって一時的に気を紛らわせています。

私たちは、そんな社会に適合するように私たち自身や子どもたちに求
めながら、その中で納得がいかないと次は反対のシュプレヒコールを
あげます。そうすることで、とりあえずは別の体系を持った社会をつ
くることもできるかもしれません、それが必要な時ももちろんあるで
しょう。しかしそれだけでは、決して満足は訪れないでしょう。なぜ
なら思考でものごとを切り盛りしようとしても、それは生を司るもの
ではないからです。

しかし私たちの一人ひとりが、「私」に含まれているあらゆる固執や、
染み付いてしまった癖、偏見、また自身への愛着というものについて
把握し、それが完全に一掃されるなら、脳の活動は執着している思考
やその動きから解放され、スムーズな流れを取り戻します。そこには
何の葛藤も障害もありません。時間に囚われない、まっさらで自由な、
どこまでも続く空しかありません。そしてそこに、ほんとうの生の動
きが現れるのです。

葛藤はお終いにしてしまわなければなりません。今回私たちは、何が
葛藤を生じさせているのか、きちんと理解することができたでしょう
か? どんな葛藤もない時にのみ、私たちの中に英知と協調が生まれ
るでしょう。ほんとうの配慮があるでしょう。それは人間社会におい
てだけでなく、あらゆる生きもの、自然との調和です。しかしそれを
もたらすのは単なる知識の恩恵でも、感情のコントロールでもありま
せん。

生の中で、人がこの全的で平和な精神を持つというのは、真に理性的
な知性と、敏感な感受性が調和していることではないでしょうか? 
人間は思考能力、知性というものを持ち、その完全な機能性を知るた
めには、事実たくさんの間違いを犯してもきましたが、もうこれ以上
の精神分裂的な分断や区別、混乱、怒りや悲しみは無用なはずです。
 

初々しく、まだ汚染されていない子どもたちの生、その自発性、感受
性を、私たちの古びた知識でもって殺さないように、彼らが安心して
視野を広げ、自分を知り、世界を知り、各々がもつ独自性を認め合い
ながら、周りとすばらしい関係を築けるように、そして自分がほんと
うにしたいこと、役立てることを見つけられるように、私たちは静か
に彼らを見守りながら、自分自身を見守りながら、時に、その背中を
そっと押してあげることができるでしょうか?