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私たち人間は、自然の中に存在しています。人為的に生産したり、解
体する、機械や建物などを有しながらも、私たちは全体を織りなして
いるその自然の一部なのです。このとてつもなく大きな宇宙の中で、
全てと絶えず、共に在ります。ですからここで起こることは、どんな
ことでも全て、直接あるいは間接的に、自然全体に何らかの影響を与
えるのです。

さて、私たちの想定をはるかに上回る、突然の出来事が起きたことに
よって傷ついたのは、私たちの心の中にある思いや信念、また人々が
長年かけて造り、構築し、培ってきた物々でしょうか? それとも今、
目の前にあり感じられるのは、むしろ自然自らが傷ついている姿でし
ょうか? 

私たちは、この事象をどのように受け止めているでしょう? それは、
日々のちっぽけな悩みなど一掃してしまうかのごとく、世界中に強烈
に響き渡り、私たち人類が進むべき航路への、多大な注意喚起を迫っ
てはいないでしょうか? 

もし、私たちの関係、社会、地位、所有物、建造物などが、自然の脅
威によって破壊され、私たちは心まで傷つけられたと感じてしまうな
ら、それは、傲慢さというものかもしれません。傷つけられたという
言葉そのものが、いつからか自然を掌握、支配し、コントロールでき
るという錯覚の世界に生きるようになってしまっていた、私たち人間
の愚かさと無明を示すものではないでしょうか?

私たちは科学技術という名目のもと、自然そのものを自分たちとは区
別分類して扱うようになり、それが持っている測り知れないエネルギ
ーに対して、ひどく干渉するようになっています。そして自然破壊や
汚染という自虐的な問題を私たち自身で引き起こしているのですが、
しかしそこからもたらされた衝撃を実際、共に実感した以上、私たち
が生きる上で、的確な行為というのは一体どういうことなのか、問わ
ずにはいられません。

あの瞬間、私たちの眠りこけていた精神は、ある意味目覚めさせられ
たのかもしれません。今までそうとは気づかずに、緩慢状態の中で過
ごしていたことがわかり、ショックだったかもしれません。危機に直
面して初めて自分の心の底辺にある様々な思い、明瞭なもの、またそ
うでない混沌としたものの交じる心の深みに、不意に触れたのではあ
りませんか?

そんな中、私たち人間は、本来まったく隔たりなく、協力し合えると
いう事実にも気づかなかったでしょうか? けれどもそれはほんの一
瞬のことで、すぐにまた消え失せてしまうのでしょうか? ですから、
まず最初に浮かんでくるのは、次に取るべき私たちの行動についてで
しょう。 

私たちは本当の意味で過去から学び、過ちを二度と繰り返さないよう
にするにはどうしたらいいのでしょう? 「私」を生きる日々を繰り
返し、単に満足することだけを、再び求めていくのでしょうか? そ
れとも全く新しく、過去の経験に執着せずに、未来を当てにすること
なく、また信念にさえすがらずに、今できることを少しずつでも、て
いねいに行っていくことが大切なのでしょうか?

生きていると、何かを間違ってしまうというのは誰にでもありうるこ
とです。しかしそれでもなお、内面に葛藤をもたらすことなく、その
気づきから、すばやく修正することができるでしょうか? それが私
的なことがらでも、社会に対するものでも。なぜならそこには、実は
何の隔たりもないからです。

私たちにその俊敏な気づきはあるでしょうか? 特に人々との関係に
おいては、思考の限界というものを知り、持ち出された意見や観念に
対し、さらに思考・言葉で対抗し続けるのではなく、そのような反応
パターンそのものから抜け出し、それを超えてゆかなくてはなりませ
ん。直接取り組まなくてはならないのは、私たちの脳に染み付いてい
るその反応パターンの方なのです。

ほんとうに暮らしやすい環境というのは、単に技術的利便性があるだ
けではなく、人の真心、やさしさ、裏表のない思いやりのあるところ
です。もし一人ひとりが「私」を主張したり、保身しようという感覚
がまったくなく、利己的な考えに基づいていなかったら、技術や物質、
情報面では、これまで以上にそれらの快活で的確な利用によって、真
に秩序ある豊かな社会が見られるはずです。

これを、単なる希望的観測として述べているつもりはありません。た
だそれが事実可能であるということを、ここで一緒に見い出せないで
しょうか?

この自然界の中で、人間だけが何かを必要以上に求め、躍起になって
右往左往しながら、混乱と複雑さ、そして苦悩を抱えて生きてきまし
た。なぜでしょうか? もはや皆、あれこれの占有願望や、自己関心
が強すぎて、周りを広く見ることのできるゆとりがないようです。ま
た今までのやり方を失うと、どうなってしまうかわからない不安と恐
怖が、常に背後に立ちはだかってもいます。

私たちは、ものごとの可能性を、今までほとんど技術革新や物質的発
展、そして制度改革の中に求めてきましたが、真の新たな可能性とい
うのは、実は外側にではなく、内面という意味で、私たちの脳の活動
のしかたを見直し、そのような思考の反応パターンに対して、疑問を
持つことにあるのではないでしょうか? 

そこでまず、私たちは決して強制したり、コントロールしようとせず
に、理想や願望を掲げ、批判や正当化、拒否や賛同をひたすらおこな
い続けている思考を交えずに、絶えず注意深くあり、目の前にありの
ままに広がる光景を見つめ、またしっかり聞き入ることはできるでし
ょうか? 

この、頭を空っぽにして静かに留まることが何より大切なのは、そこ
から次の動きが自然に生まれてくるからです。「私」の判断によって
行動するというのではなく、ただ身体を通して、生の自由な動きがそ
こに生じてくるのです。それを実感したことはないでしょうか? 

その動きは、その後、持っている知識を活かすかもしれませんし、時
によっては言葉さえ発することなく、じっとしたまま何もしないかも
しれません。しかしそれでも決して注意は途切れることなく、脈々と
力強く、息づいているのです。

ところで、生の動きについて言及すると、ふともう一つ別の疑問が浮
かんできます‥。それはこの自然の一連の動きとそこから起きた出来
事が、起こるべくして起こったのかということ。それは私たちの意識
‥愚かさや無知、そしてある種の勘違いや傲慢さで充満してしまって
いる、ごく普通の私たちの思考空間に働きかけるべく起きたのでしょ
うか? 

全く非常な、とてつもない破壊‥。ひどく無情に見えるものであって
も、それが、秩序をもった自然、生の自発的な動きなのでしょうか?