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すさまじい勢いの風が、天空を突き抜けるがごとく激しく吹き荒れた
夏最後の台風が過ぎ去ると、すぐに秋分がやってきました。そうして
昼と夜が互いに等しく分け合った後は、まるでこの季節の移り変わり
を祝うかのような美しい日々がしばらく続いていました。

太陽からは明るい光が降り注ぎ、静かで、さわやかで、穏やかな気配
が一日中流れ、ひんやりとした空気が漂う夕暮れの頃には、中空でト
ンボたちが泳ぐように舞っていたり、遠く高く広がる雲の群がまだら
に赤くにじんでいたり、林立する木々は青々と茂った葉をより一層色
濃くしながら、日々だんだんと早まる夜の闇にひっそりと紛れてゆく
のでした。

心を見るということ、そのベースは<沈黙>です。私たちは、頭の中
で思考する動きが止むのを、無言の中に見つめることがあるでしょう
か? 毎日の生の中で、ほんとうにそれが止むことがあるでしょうか?

一方、思考の運動というのは、過去と記憶の断片を、言葉によって繋
ぎ合わせることで成り立っています。ですから何かを考え始めると、
そのうちに事実を歪曲させたり、複雑にしてしまったり、想像をかき
たて、悩みをさらに増幅させてしまうこともあるのですが、心の問題
をほんとうに解消するのは、知識や理論による分析や議論ではなく、
自分の内面で起きている全てに傾ける、今この瞬間の深い注意と観察
です。

ここで云う解消というのは、脳内でダマになって固まってしまってい
た結節がほどけ、完全に溶けて無くなってしまうことを意味していま
す。その時はもう二度とその問題について思い悩んだり、また同じよ
うな問題が再発することもありません。それは精神的なガンとも云え
る、パターン的思考からの完全な解放です。

自分について知ること、自分の心を観察するには、気が向いた時だけ
でなく、日常の中で感じる全ての気分、感覚、感情、食や性といった
肉体的反応が絡んだ欲求も含め、自分の中に発生するどんなものでも
選り好みせず、どのようなイメージも付け加えずに、その都度ていね
いに刻々と感じ、見つめられなければなりません。

もし、身体的変化を伴うような激しい衝動・感情が起きても、強烈に
渦巻く思考の勢いに巻き込まれ続けないように気をつけながら、同時
に心のずっと奥深くを覗いてみてください。その時そこに隠れている
本音や本性を認識してもしなくても、むやみに頭で解決しようと躍起
にならないよう見守っていてください。

今までは、何につけてもすぐに「私」が走り出し、ではこうしよう、
ああすれば‥と、あれこれ手を尽くそうとしてきたかもしれませんが、
それでは事が錯綜してしまい、またさらに「私」を太らせてしまうこ
とにもなるのです。ですから後にも先にも、現状の流れを静かにとこ
とん見つめている他に、すべきことは何もありません。

もちろんそうは云っても、ありのままの状態を空手で真正面から受け
とめるには、時に強い葛藤や苛立ち、屈しがたい不安や恐れ、いたた
まれない辛さを感じることもあるでしょう。が、それでも絶対に「私」
の手を貸さず、思考の網に捕われないように注意し、実際感じるエネ
ルギーと一体になって、それを意識の中で見守りながら体内を<通過>
させることはできるでしょうか?

その衝動や感情そのものを否定的に捉えてしまうと、ついそれをせき
止めて、無理に押さえ込んで塞ぎ込んだり、わざと勢いづかせてはけ
口を探したり、体裁を気にしてごまかしたり、自分を励まし、慰め、
正当化しようと、次から次へと説明を繰り出し、それで何とか納得し
ようと試みたり‥などしてしまうものですが、そのような狡猾な思考
の企みからも注意をそらさずに、まるごと気づいていることはできる
でしょうか?

また消化されずに、溜められたままになっている過去の古い傷や、古
い感情についても同じです。もしそれを思い出したなら、たとえどん
なに小さな記憶の欠片であっても決して放置しておかずに、それと共
にしっかりと留まること。すると、これまで馴れ合いにさえなってい
た自己憐憫的な感傷も超えて、当時は全く見えていなかったものに、
はっきりと気づく、そんな瞬間に出会えるはずです。

溜め込まずに消化・解消させることはとても大切なことです。なぜな
ら対人関係において、私たちがそれぞれにわだかまり‥つまり不理解
で、未消化のものをずるずると持ち運んでいることが、お互いの軋轢
と誤解、さらに偏見をも生んでしまうからです。それは、ほんとうは
毎回新鮮であるはずの再会や、また別の新たな出会いまでをも阻害し
てしまいます。

さらに、そのように心の奥でくすぶったまま放置されている数々のわ
だかまりというのは、「私」の存在を支える、回顧の流れを作り出す
ものでしかありません。またその不満やくすぶりをもたらした原因や
責任を、常に相手や他所に押し付けたくなるのも、実はこの「私」に
強く固執してしまっているからなのです。

目をそらさずにきちんと見守っていると、「私」という中心、それを
取り囲む数々のもの、周りから分離させてしまっている存在背景まで、
それら全ての真偽が自ずと浮かび上がってきます。その真偽を洞察し、
完全に見通すことこそが、その重くのしかかっているわだかまりを瞬
時に、誰にも、どんな物にも頼ることなく、自然に跡形なく消滅させ
るのです。

が、どうしてもまだ動揺や興奮、停滞、傷の痛み、不快感といったも
のを感じ続けてしまうなら、なぜそれは長引いたり、再び現れたりす
るのでしょうか? 誰かから答えや理由を与えてもらえることを期待
せず、どうかご自身で再び見つめなおし、それをあばいてみてくださ
い。

心を観察するというのは、それについて考えることで結論を引き出そ
うとすることではありません。事実や問題に対して、そこに関与しよ
うとする自分自身の<思考過程>を見つめ、その内容や脳の動きその
ものに、瞬時の直感ともいうべき、洞察を生む機会なのです。

もし自発的に心を観察することのないまま生きるというのなら、困っ
た時、悩んだ時、他の誰かに解決方法や、自分の生き方を尋ねたとこ
ろで、それは単なる一情報収集として終わります。脳に情報が与えら
れることと、脳自体が目覚め、実感し、問題や悩みの元となっていた
結節が消え去ることは、全く別のことなのです。

不必要な心理的記憶、比較による優越感、劣等感、またそれに伴う心
配、恐怖といった結節を抱え、無自覚ながらも「私」を維持継続させ
ようと、日夜止むことなく活動していた思考の流れから解放されると、
それまでぎゅう詰めだった脳には、何にも占拠されることのないゆと
りと、機敏で自由な本来の動きが生まれます。そこに、正しく思考を
用いることのできる英知や直感、真の知恵が宿るのです。

脳にこの無垢な自由さがなければ、たとえ知識、教養、情報や、物質
レベルでのコミュニケーションを世界中に広げたり、富や権力を手に
入れることができても、結局人は、心の奥に潜む荒涼とした虚しさ、
わびしさを拭いきれずに、その分離と孤独感から、さらに鈍感で欲深
く、利害と搾取、争いと後悔、無関心と放任という、利己的で、かつ
表面的でありながらも、その実怯えているままの、暴力的な関係しか
築けないでしょう。

人生の中で、単に想起することで癖づいてしまっているだけの「私」、
いつも架空の主人であるこの「私」というものの本質を理解せず、ま
た手放せないのなら、その生には真に新しい交流も、交感も、創造も
生まれることはありません。自然は常に千変万化し、こんなにも新し
さに満ち溢れているというのに、過去を元手に、そこに縛られている
ような精神というのは、すでに死んだも同然で、単に惰性で漂ってい
るだけの、むしろ破壊的なものにすぎないのです。

そうすると、ならば人間精神における豊かさとはいったい何なのか‥
ということを問わずにはいられません。なぜなら、「私」の正体を知
った私たちにとってはもはや、悲観も、失望も、諦めも、自分を卑下
し自嘲することさえ、生にとっては全く無意味であることが実感とし
て解るからです。

生における、その成熟した豊かな精神というのは、真に思いやり深く、
敏感な感受性と、美しい秩序をもって正しく働くことのできる、聡明
な知性とが、分離することなく完全に溶け合い、脳は何の抑圧も葛藤
もなく、絶えず自由でくつろいで在ることではないでしょうか?

それは、感性と知性という二つのものを巧みに使い分けたり、離れた
ままのものをコントロールすることでどうにかバランスを保たせるよ
うな不安定な状態のことではありません。それは、一切の境界なく、
完全に混じり合った融和の状態のことでしょう。が、その実現を思い
焦がれ、期待や希望として先送りするべきものではなく、それはこの
自然の中で、すでに人間に組み込まれている潜在的能力なのではない
でしょうか?

さて、私たちの生活で浮上する、さまざまな物理的問題を解消するた
めの検証、対策、研究、技術開発や、執務実行においては、特にこの
清澄で、融合した精神がまず伴っている必要があるのです。なぜなら
今までの歴史で繰り返されてきたように、恐怖や疑念にかられていた
り、あるいは個人的感情や、特定の知識や経験、イデオロギーにこだ
わっていれば、その偏向による歪み、不具合や不都合が必ずどこかに
生じてくるからです。

しかし実際、私たちの精神、考え方や、ものの見方というのは、はな
はだ分離的であり、包括的なものではありません。それがまだ未熟で
あることは、私たちの生き方や活動が、また私たちの作り上げてきた
社会や環境が、矛盾に溢れ、閉ざされ、息詰まってしまっていること
で明らかです。

が、そもそもなぜそのような矛盾を、暗に受け容れてしまっているの
でしょう? 事件や事故、病気、災難など、非日常的な事象に遭うこ
とで、ようやくその未熟さというものに気づく‥、私たちの日常とい
うのは、それほどまでに各々の立場や環境条件、個々や、また公の思
想、嗜好、傾向、規制などに逆らえないほど頑強なものだというので
しょうか?

たしかに今の私たちの精神というのは、何かを識別、判断する際に、
そのような思想や感情、知識や経験、世間の常識や伝統文化、概念と
いったものを優先視します。そして、何事に対しても分轄や専門化を
良しとするあまり、人それぞれに見解が点々バラバラに散らばり引き
裂かれる一方で、いざそれを統括し、まとめようとすると、それはあ
まりに気が遠くなるような行程に感じて、皆、途方に暮れてしまうの
です。

このままでは、私たちは非常に大きなものを失ってしまうでしょう。
その大きなものとは、人間性‥かけがえのない、あの包括的で、特質
的な精神のことです。私たちは一人ひとりに内在するその本質、可能
性に充分に目覚めることもなく、活かすこともできないまま生に逆ら
い、感情に流され、また抵抗しながら、孤立し、病んでいくのでしょ
うか?

人は夢や理想をたくさん思いつくことができ、そのための努力は惜し
まないかもしれません。しかし問題が発生するその根源は、この世の
中の何についても、断片化された部分を、限定的な視点で、限定的に
見ているだけで、決して全的に扱っていないことです。静けさを知ら
ず、全てを見守り、見通す余裕もなく、日々の忙しさにかまけ、その
美しく純粋な人間としての可能性を、私たちが察知できずにいること
ではないでしょうか?

この全的な知覚、敏感さが大きく失われてしまっていることに、私た
ちはまさに今、気づくことができるでしょうか? 時間や、考えるこ
とによっては絶対に持ち越すことのできないもの、それが真理であり、
愛なのです。私たちがどこで何をしていようと、ありのままの姿をこ
とごとく照らし、絶えずその全てをさらけ出そうとしています。
 
 
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たくさんの季節が流れゆく中、私たちはここで、自分たちの心を見つ
めながら、思考というもの、感情というもの、私たち人間の心理につ
いて、その中身、その本質を見いだそうとして共に歩んできました。
 
そして今その全貌は、ほぼ明らかになっているのではないかと思うの
ですが、いかがでしょうか?
 
 
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決して途切れることなく、刻々と新しく語られる、あの無音のささや
きを聴きながら‥
 
またいつでも、お会いしましょう。
 
 
 
 

*Brut – 完 –