空がまぶしく晴れ上がると、この季節ならではの穏やかな気配が漂い、
しかし曇り空で陰ってくると、たちまち空気はしんみり冷たく感じら
れ、気温も少しずつ下がってきています。山や街路樹の葉群れたちは
まるで灯し火のように自身を色濃く染めゆき、散る前のひと時、暖か
みのある美しさを見せてくれています。
一方、冬の最中でも青々とし、いつも大きくて固く丈夫な葉を茂らせ
ているビワの木は、今がちょうど花の季節。小さな白い花に群がるの
は、どこからともなくやって来る大小様々なたくさんの蜂たちです。
満開の花々の間を、羽音をうならせながらひっきりなしに飛び交い、
忙しさのあまり、それを側で眺めている人のことなどは気にもかけて
いないようです。もちろん気などかけてもらわなくてよいのですが‥。
さて、前回までの2回に渡り、瞑想を求めてしまう「私」についてお
話しました。この「私」と瞑想の関係について、一般的に誤解されて
いることについて、ご自身の中で明らかにされたでしょうか? もし
瞑想というものを真に理解することができれば、その理解は生そのも
のの動きを知ることであり、実際いつもそれと共にあることが自覚さ
れることでしょう。
そして私たちはその自覚があってはじめて、自分の仕事というものを
見つけることができるのかもしれません。仕事というのは、単にある
職業に就き、その専門性を高めていくことだけを指すわけではありま
せん。私たちは学習してゆく中で、知識や技術をしっかりと身につけ、
応用力を携えながら、それを必要とする場で充分に活かす能力がある
でしょう。
しかしそれらを用いる時には、単に個人的、集団的な感傷に流された
り、利得目的や、特権を行使する支配的、限定的、また破壊的な判断
や決定を下すようなことがないように、そして機械的で惰性的な行動
に溺れることのないように、常に全身を開いて気をつけていなければ
なりません。権力を持つ役柄や階級のイメージから自由でなければい
けません。職業上どんな立派な肩書きがあったとしても、誰もが一人
の人間なのです。
私たちは自分の仕事というものについて真剣に考える時があるでしょ
うか? 毎日同じ繰り返し、同じ役柄にこだわっていないでしょうか?
この生の中、私たちは何を糧に生きているのでしょう? この生に調
和をもたらす働き、仕事というのは、どういうものでしょうか? そ
れは生を保つだけの報酬を目的とした、労働力や知識、技術の切り売
りのことを指すのでしょうか?
自然というこの大きな世界の中で人としてどのように在り、どのよう
に周りと関わり、どのようにこの生を充分に活かし、ひとりひとりに
内在している知恵とエネルギーを発揮することができるのか、それを
人生のなるべく早い時期に、自分自身で見抜くことができるように、
私たちは子どもたちを支え、見守っているでしょうか?
子どもたちだけでなく、すでにもうある程度年齢を重ねてしまってい
る誰にとっても、もしそれを自らの力で見抜くことができないのなら、
私たちは単にあれこれの影響を受けるだけで、それらをなぞり写して
いくだけのコピー紙のような、薄っぺらい人生を送ることになってし
まうでしょう。
生きるとは単に生計を立て、暮らしてゆくことではありません。もち
ろん、生きるためには食べなければなりませんし、落ちついて眠れる
場所、暖を取るためのもの、清潔さを保つためのもの、その他もろも
ろが必要です。しかし年老いてゆくにつれ、もしくは若くしてすでに、
いつのまにか個人的、私的な安心の獲得と維持のために暮らしてゆく
ことが、優先視されるようになってしまうのです。
そこに、エネルギーの停滞が起きるのではないでしょうか? その層
は私たちの視界を曇らせてだんだんと厚くなり、霧濃くかすんだ状態
から抜け出すことを思いつくこともないまま、さらに奥へと埋もれて
ゆきます。残念ながら、そこには何の創造もないでしょう。生が、私
たち本来のエネルギーが、ぎゅうと閉じ込められているのです。そし
てそれが、私たちが時折無性に感じてしまう悲しみや、虚しさなので
はないでしょうか?
本来働くというのは、私の個人的安楽を求める願望や信念とも、社会
での強制や妥協とも何の関係もありません。それを超えた生本来の動
きによって、心身ともに自然に基づき、自ずと熱心に従事できる何か
しらが、その人の仕事となるのではないでしょうか?
もし今のように、私たちが人、周囲、自然、物々との関わりにおいて
‥それは、直接私たちの仕事を通じての関わりがとても大きいのです
が、この先もずっと不鮮明で混乱し、そして摩耗し続けるのなら、ま
た子どもたちの受ける教育が、知識や技術獲得だけを重要視したもの
にとどまるのなら、私たちは今後も迷妄の中、霞の中をさ迷い続ける
でしょう。そこでは決して精神的開花、人間性の開花は起らないでし
ょう。
なぜなら私たちは、頭の中で積み上げただけの理想に、信念に、強制
に、または惰性と現実からの逃避に、ほとんどのエネルギーを使い切
ってしまうからです。私たちは誰かから押し付けられた考え、また自
らの思考に操られて生きるのではない生き方があること、思考では決
して届くことのない生の存在、エネルギーの存在に気づくことができ
るでしょうか‥?
それでは次に、時間というものについて調べてみましょう。まず、今
いる私たちの世界は3次元だと云われています。が、これは、ある限
定された物体や空間を示すために使われている、指標表現のひとつで
す。宇宙のその奥行きに、端があるかどうかは実際には解りません。
またさらに4次元というのは、時の流れを操作でき、時空間の移動を
可能にするものとして私たちが考案したもの、フィクションです。私
たちの思考の中では容易に4次元世界が可能ですが、それは、過去や
将来を自由に想像し、思い浮かべられるという意味です。しかし思考
内での時の移動というのは実際的ではありませんよね? 云い方を変
えると、時間というのは、頭で、思考によってのみ「計測」されるも
のなのです。
さて、時間というのは、物理的な物の移動や変化を「表現」する以外
のところで存在するでしょうか? ‥この問いがお解りになりますか?
例えば、太陽が昇って沈むという一連の動きに時間がかかると思うの
は、まず太陽が昇った瞬間の景色の記憶があり、その記憶を元にして、
次に日没を見ると、ある流れの経過と景色の変化を感じるからです。
この場合、正確には太陽が動いているのではなく、地球が自転してい
るからですが、しかしこの自転という動きは、瞬間瞬間の連続‥いわ
ば不断の流れによるものです。
そしてまたこの瞬間というのは、1秒なのか、0.1秒なのか、もし
くは0.000‥1秒なのかという話になってしまうと、これこそ文字
通りなのですが切りがありません。計り切れないもの、つまり区切っ
たり分別できないものを、私たちはかいつまんで「瞬間」とか「今」
とか「時」という言葉で表そうとしているのです。
ですから、たとえ「今ここに生きよう!」などとつぶやいてみたとこ
ろで、もし私たちにこの時間というもの、思考の運動についての理解
がなければ、そのフレーズは単に、自己抑制やコントロールのための、
まやかしの念仏になってしまうのです。くれぐれも気をつけましょう。
ではどうでしょう? 私たちが普段捉えている時間というのは、計れ
るもの、測定できるものです。何時から何時、何日から何日、何年か
ら何年、何年前、何年先‥。ここからそこという区切りがあるという
ことは、そのための起点、計るためのスタート時点や、その計測単位
を表記しなくてはなりません。そこで1日を太陽の動きから分割して
表記した時間、月日や季節、また紀元や西暦などがあるのです。
そうすると、次に人間が考える始めるのは、宇宙の起源はいつか?
生命の誕生はいつか? 赤ちゃんが誕生するのはどの時点か? とい
うようなことなのですが、しかしそのような議論は、私たちが私たち
の思考の中で、時間や計測というものに頼った見方をしているがゆえ
に生まれてくるものなのです。
それでは、宇宙というのは限られた空間なのでしょうか? 宇宙には
起源があるのでしょうか? 今から約150億年前に起こったとされ
るビッグバンというのは、いったいどんなものだったのでしょうか?
無の状態、つまり0から瞬時に1〜2〜3次元というような動きがあ
ったのでしょうか?
いえ、もう一度繰り返すと、次元というのは人間が計測のために考案
した指標です。さらに重量、長さ、個数、速度、時間など、いずれに
しても基本は0なのですが、では次にくる1というのは何なのでしょ
うか?
次元という言葉ではわかりにくいかもしれないのでちょっと脇に置い
ておくと、1というのは在る‥何かが存在する、0というのは無し‥
何も無いということです。しかし、無というのは本当に0なのでしょ
うか? 時計では、0が同時に12だったりもします‥。
ですから問題は、無から1への派生運動です。これは物質的には、例
えば目の前に石ころが一つある/ない、本が一冊ある/ない、人が一
人いる/いない‥と表現はできますが、物体の生成を考える時、単純
なマテリアルを分析表示はできても、今度はこのマテリアル自体の生
成が問題になってきます。
行き着く疑問は必然的に、何が物質の起源か? ということになり、
伝統説によると、それは自然四元素や五元素であると説明されますが、
さらに分析が進められた現代科学では原子や素粒子というものが発見
され、今も盛んに研究が行われています。しかしそれがもし「計る」
ことができない何かなら、私たちの思考でもって捉えること、つまり、
物の起源は〜だと断言したり、表記されうるのでしょうか?
季節の移り変わり、地球が回っているような天体の動き、この流れは
何なのでしょうか? 眠りや休息、そして静止にさえも、例えば引力
などのようなあるエネルギーが息づいています。爪が伸び、髪が伸び、
怪我が治り、心臓が鼓動する、生〜老い〜死、この日々の流れはいっ
たい何なのでしょうか? この動き、流れが、万物を包み込んでいる
全世界、宇宙と呼ばれるものであり、また同時に、数えられないとい
う意味で、無なのでしょうか?
一個の石や、一冊の本、そして一体の身体、また私たちの暮らす地球
を見る時、それを1つの「物体」として捉えると、それは区切られた
存在で、前後左右の何ものとも、接点はほとんど無いように見えるの
ですが、その1という数字はあくまでも表現上の区別であり、実は物
ごとの全てが宇宙の一状態であり、目や思考というのは、その全現象
のほんの一部しか捉えられていないのだととしたら‥?
ほら、日常の中でも、測れないもの、表現し切れないようなものまで、
とりあえず名付けて呼んでいることが、いろいろとありませんか?
