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夏の暑さが遠ざかり、このところは雨が続いてすっかり涼しく、また
そっと肌寒くもあり、あっという間に衣替えの季節です。庭先では、
伸びに伸びた後で枯れ始めた夏野菜の枝がひょろひょろと細く、その
隣にはまだ青々しているものの、丸く大きく膨らんだ栗のイガが枝先
にぶら下がっています。片隅に茂る野生の紫蘇は花を咲かせて、実も
つけ始めました。落ち葉の頃になる前に、いくつかの草木は剪定が必
要なようです。

それでは今回もまた、瞑想についての話を続けましょう。‥というよ
りも、瞑想の本質、その意味するところを真摯に調べてみることにし
ましょう。なぜならそれを調べることと、ただ単に瞑想を試そうとす
ることには、たいへんな違いがあるからです。むやみにやろうとした
ところで、もしその真意を理解していないのであれば、その行為は私
たちを再度、鈍感に眠らせてしまう危険をはらんでいるのです。

いわゆる瞑想と呼ばれるもの、それが新手のものであれ、長い伝統の
中で形式化されたものであれ、その類のものにはたいがいお手本のよ
うな習得すべき型のようなものがあり、こうしなさい、ああしなさい
と指図され、また、そうすれば〜になるだろう、〜できるようになる
だろう‥という不確実な予見がおまけのように与えられます。

理想の何かになる、自己を改め、自我を落とし、欲を押さえる、心に
抱いている恐れや心配、苛立ち、悲しみを遠ざける、苦しみを超越す
る、無心になる、悟りを得る、何か特殊な能力が得られるようになる
‥。そんなふうに、さも望みや目的が叶うようかのようにほのめかさ
れるようです。私たちはそのような状態を手に入れたいと思うことか
ら瞑想に関心を持つのでしょうか?

その場合、私たちはすでに何かを期待してしまっています。期待する
内容は様々であれ、私たちが求めているのは、自分が完成や完璧だと
見なすもの、イメージするものではないでしょうか? 瞑想を経験す
れば安心や、達成感、充実感、優越感が得られると思うからではない
でしょうか?

しかし、何を元に、何と比べて、何を基準とした完成や完全性なので
しょうか? それもまた私たちの思考・知識によって抽象化されたイ
メージなのではありませんか? 思考はいくらでも自分が思い描きた
いイメージを次々と新たに生み出すことができるでしょう。

が、それこそが大きな問題なのです。なぜなら、私は悟りを開いた、
欲を落とした、自我を落とした、私は無だ、私は自由だ、私は〜だ‥
とイメージすることさえできてしまうからです。そして、もし一旦そ
のような創作イメージの方に親しんでしまうと、今度はそれを手放す
ことが難しくなります。さらに、不安に対面するごとに、ますますそ
のイメージに強く固執するようになるでしょう。結局、自分の精神を
鈍く、狭くし、ごまかしていくことになるのではないでしょうか?

さて、瞑想とは、期待や目的を持って「する」ことなのでしょうか? 
これは、本当にまじめに検証されなくてはならない大切な質問です。
なぜなら、私たちの精神というのは、表面的には円滑、滑らかなよう
であっても、それは実際は単なる浅薄さにすぎないということが往々
にあり、無思慮に周りの意見や情報に流されたり、影響されやすかっ
たりするからです。

この「瞑想」という言葉自体を見ると、目を瞑り(つむり)、想うこ
と‥と記されます。また現代辞書においても、想いめぐらす、集中す
るなど、思考することを前提として述べられているようですが、それ
を軽率にうのみにせずに、悠久の歴史の中で、なぜこの言葉が生まれ
たのか、一体どのような状態をその言葉で表そうとしたのかを見い出
せるでしょうか?

瞑想とは、目的実現のためにすること、行うこと、行為でしょうか? 
毎日時間を決めてするような日課や、時々行う行事、イベントなので
しょうか? 精神統一する鍛錬、自己実現のためのトレーニングなの
でしょうか? 

目的があるところには必ず、イメージ、意志、コントロールといった
思考の運動が生じます。目的というのは、例えば、今いるA地点から、
目的地Bへ移動しようとすることですが、これが単に地理上、物理的
な移動ではなく、精神状態においての移動とはどういうことでしょう
か? 精神が完全に、跡形なくAからBへ移動することは可能でしょ
うか? 

それができるとすれば、それはA状態の完全な終わり、死を意味しま
す。では、今Aである私は、精神的に何の後腐れもなく、全てを手放
して死ねるでしょうか? ここでいう死とは、故意にAを殺すことで
なく、生きながらにして自然に消滅できるのか、ということです。

今、私の中にはあれこれの思い、不安、迷い、疑念、葛藤がくぐもっ
ているにもかかわらず、それには向き合わずに放っておいて、目をつ
むったり、何かを唱えたり、イメージを膨らませてみたりして、ほん
の一時の間、精神的に静かに、穏やかに過ごし、忘れることができた
としても、それが意図的に用意された一定の時間内、限定された状態
であるなら、ただイメージの渦に巻かれて夢心地だっただけのこと、
現実にはまだAのままなのです。

では仮に長年訓練し、思考を鎮めることのできる技法を身につけたと
します。しかしそれを瞑想と呼び、また今から瞑想しよう、先ほど瞑
想をしました‥などと云うのは誰でしょうか? そう云えてしまうの
は、瞑想を一行為として捉え、それを分離して見ている「私」がいる
からです。しかし当の私は、セルフイメージ、数々の心配ごと、スト
レス、執着、過去の傷から完全に解放されているでしょうか? 

いえ、心の奥底では常に不安が漂っていることでしょう。ある方法や、
過去の体験に固執することは、必然的にそれへの依存を高めます。何
かに頼らざるを得ないことへの懸念、またそれを失うことへの恐れが、
不安定な私を揺さぶります。またその動揺をあくまでも頑に隠そうと
する私との間には葛藤が生まれ、闘うことでエネルギーも消耗してし
まうでしょう。

そんな「私」の素地のもろさ、粗さ、つくろいというのは日常生活で
たやすく本性を現します。それはすでに目つき、表情、振る舞い、言
葉使いや、ちょっとした身体の癖、習慣的な行動などに現れているで
しょう。人々と接するふとした場面では、落ち着きがなくなったり、
感傷的になったり、傲慢さや残酷さ、また暴力的な行動となって露呈
するでしょう。

そもそも「私」が「瞑想する」ことはできるのでしょうか? 瞑想が、
私の精神的困窮からの解放、また悟りと呼ばれるような、生について
真理の理解を生むものであるのなら、瞑想の実現を追い求めようとす
ることは、根本的に間違っているのではないでしょうか‥? 瞑想を
“しよう”としたとたん、すでに瞑想も悟りもありません。‥この表現
の真意がお解りになるでしょうか? 

何も追求することなく、明晰さを伴った、澄んだ目でただありのまま
の状態、状況を見つめる時、そこにある真偽というのは、自ずと浮か
び上がります。できることは、今の自分、ありのままの実状から決し
て目をそらさないことです。私は今何を考え、どう思い、感じている
のか、その思考の動きそのものを認識すること。一切の弁解もせず、
何も”しよう”とせずに留まり、ただその奥にあるものを瞬瞬刻々と見
つめることです。

実のところ、一旦「私」の存在について、またそれにまつわる思考の
本質というものに触れ、理解が起きると、瞑想へのこだわりなどなく
なってしまいます。そのためのお決まりの時間も方法もまったく意味
を持たなくなります。瞑想を意識することもないでしょうし、その瞑
想という言葉さえ忘れ去られます。

なぜなら、もしAが消滅したのなら、そのAが望み思い描いた、つまり、
Aから派生していたBというのも同時に消滅し、すでに無に帰している
からです。

何も追い求めることなく見つめると、その見つめることから自然に自
らの心身を、周囲との関係を、また環境を秩序立てようとする自発的
な動きが、身体と、思考を通して表われてきます。そしてこの一連の
トータルな動きこそが、瞑想と呼ばれるにふさわしい状態なのではな
いでしょうか? 


それは、途切れることのない生そのものの運動なのです。