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厳しい暑さの夏です。目に痛いほどにまぶしい太陽の光が、日が昇る
とともに毎日ジリジリと大地や木々を、砂利やアスファルトの道を、
電柱や建物、行き交う人や車を容赦なく熱く射し、日が落ちて夜にな
っても気温はさほど下がらず、昼間の気配を残した空気が肌にまとわ
りついたまま、また朝を迎える‥というこの一ヶ月でした。

この暑さと熱気では湿気も飛ばされてしまうのでしょうか? 湿度が
それほど高くないのが唯一の救いです。しかし暑さは止まなくとも、
蝉の合唱はすでに終わりを遂げており、周りから聴こえてくる虫の声
だけはすっかり秋。また先日、小さな台風が列島を横切って行ったお
かげで、カラカラだった大地といきものたちは久々の雨で潤い、運ば
れた涼風にようやく息をつくことができました。

暑さは身体を鈍重に感じさせ、機敏な知覚も働きにくいかもしれませ
んが、無理することなくゆったりとした心持ちで、私たちの日々の観
察に取り組みましょう。

前回はイメージすること、特にセルフ・イメージを持つこと、そして
それを持ち運びながらの生活、関係性についてを見てみましたが、こ
のイメージしていく思考の動き、とめどなく言葉と記憶を織り重ね、
紡いでいく運動そのものに、ただ、お気づきになるでしょうか? 脳
の一部による記録ではなく、脳全体ではっきりと認識されるでしょう
か?

このイメージングが、無意識・無自覚のもとに自動的に行われてしま
うのは、今までの惰性的な習慣、それに注意することも、疑問をもつ
こともなく放置して来た日々の集積であり、また私たちの成長過程で
も、イメージし、理想を掲げ、その実現・達成のための努力を惜しま
ないよう助長してきた、思考優先型の社会風潮と教育によるものです。

いわば私たちの社会、そして意識全体が、イメージするというこの考
え方を養ってきたのです。しかしそれがもたらすのは常に比較し、競
争すること、他よりも優位に立ち、権力を持つこと、所有し、獲得し、
金を儲け、独占すること。そして感情を殺し、無慈悲になり、無関心
になり、不注意になり、鈍感になることなのです。生まれてすぐ、私
たちはこの巨大な意識の流れに吸い込まれていくのです。

けれども人として善い生き方をするために、何かをイメージし、それ
に対して努力、実践してゆくことが、はたしてほんとうに善であると
云えるでしょうか? 自分自身の心の葛藤から全く自由でない限り、
そこには必然的に偽善という問題が生まれてくるのではないでしょう
か?

さて、ここで私たちはこの意識の流れ、風潮に、一石を投じようとし
ています。一石を投じるというのは、まず一般的に当たり前とされて
いることに、そして今のありのままの現実に深く注意を向け、疑問を
抱くということです。

個人的なレベルでも、世界情勢を見てみても、人々の抱える問題の中
身は一見多種多様ですが、じっと見つめ続けていると、このような問
いが浮かんでは来ないでしょうか? 「私たちは一体なぜ、打ち解け
合っていないのだろう? なぜ解り合っていないのだろう? いつま
でこれが続くのだろう? こんなにも事態を複雑にしているのは何な
のだろう? 私たち人間はこのまま変わることはないのだろうか?」
と‥。

しかし全ての問題は、実は深いところで同じ根を有しているのではな
いでしょうか? 私たちの仲を引き裂くのは、常に私たちの心、精神
です。皆がそれぞれのイメージを手放さず、自分のイメージを満たし
て安心と満足を味わう反面、そのイメージが傷つけられると怯え、身
構え、攻撃的になるか、または引きこもってしまうのです。思考の生
み出すイメージに頼り、従うという構図の中で葛藤や恐怖がある限り、
私たちはいつまでも変わらないでしょう。

注意すること、事実にきちんと目を向けること。習慣や情報に流され
ず、疑問をもつこと。この重要性に気づけば、イメージに頼ろうとす
ることなく、私たちの知覚はもっと鋭敏に働くことができるのではな
いでしょうか? そうすると、ものごとを単なる知識や、私的な経験
や好みによって判断するのではなく、全く自由な心で全体的に捉えて
見れることが必要であることにもまた気づいてくるのです。

前回の終わりに云ったように、イメージの終焉、思考の沈黙というの
は真の瞑想を意味します。しかし、単にそれを実行しようとしたとこ
ろで、そこに実は大きな落とし穴があるのです。瞑想について調べて
いくために何よりまず気をつけなければならないのは、「瞑想につい
てのイメージを一切持たない」ことです。これがお解りになるでしょ
うか?

すでに私たちは「瞑想」という言葉や、その解説に触れたことがある
でしょう。本屋へ行けば、それについての様々な方式を教えるガイド
ブックが並んでいるし、さらに興味のある人ならもちろん禅や、その
他数々の宗派による精神修行の一部であることから、それを実際にや
ってみたこともあるでしょう。また今や現代人の健康法として盛んな
ヨーガも、元々はこの瞑想に関連しているとされています。

しかしここではそれらの情報、知識、個人的な経験は、全て脇にどけ
て、何のイメージもなく、真っさらなところから調べてみましょう。
まずは、なぜ人は瞑想したいと思うのか‥です。あんなに色々な技巧
・方式のガイド本が売られ、またどこかでは瞑想集会というものが行
われ、そこへ行く人々がいるのはなぜでしょう?

それは瞑想と呼ばれているものが、私に何か変化を与えてくれるので
はないかという期待によるのでしょうか? 誰かが、それは素晴らし
いものだ、人は落ちついた精神を持たなければならない、疲れた心に
は瞑想が必要だ‥と云うのを聞いたり読んだりしたからでしょうか? 
瞑想すれば、日々もみくちゃにされ、傷つき、ざわついた自分の心に
も安らぎが訪れるのでは‥と考えるからでしょうか?

もしそうだとしたら、瞑想しようとしているのは、さて誰でしょう? 
それは‥「私」ですね? 今の現状とは何か別の状況を願い、欲して
いるのです。この場合は瞑想を実践することで、ありのままから逃げ
ようとしています。それは思考による逃避です。そして結局のところ
そのような精神では何をするにしても、ドラッグのように自分を鈍感
にさせ、一時しのぎの娯楽と化し、そのうち退屈になり、飽きてしま
い、そしてまたふりだしへと戻る‥。

この皆が陥りがちな落とし穴について、少し云い方を変えてみましょ
う。では、瞑想は思考の沈黙だ‥というフレーズを聞き、思考を止め
ようとしたり、イメージを持たないようにしようとしたところで、う
まくいくものでしょうか? そこには必ず、思考をコントロールしよ
うとしている「私」がいるのではありませんか? 

これはきわめて明らかなことです。コントロールするには、そのため
のコントローラーが必要だからです。そして、記憶の断片の集合体で
あり、その連続性である「私」もまた同じ思考の一部なのですから、
私が私の意志で思考を止めようとしても、それは不可能なのだという
ことを、はっきりと見て取れますか?  

もし本当にその事実が見られれば、この見ること、理解こそが、知覚
する、ということです。それは、思考による単なる経験値によって計
られるものでなく、もはやそれを記憶することも必要としない、思考
や経験を超えたところの認識であり、それが英知と呼ばれるものなの
です。

英知は延々とした修行で養われるものではありません。それはものご
とを包括的に理解することで、瞬時に生まれるもの、また瞑想は常に
この英知と相伴うのです。

ここに記され、述べられている全ての真偽も、どうぞご自身でじっく
りと見つめてみてください。