ある朝早く、繊細な朝露に濡れた稲が立ち並ぶ水田の脇を通りかかる
と、青く若い香りを乗せた風が鼻をくすぐりました。湿気をはらんだ
空気、動くと重みさえ感じるような暑さ、空はぼんやりとにじんだ雲
に覆われて、太陽の直射をさえぎっており、その日は一日中どんより
としたまま、蝉や鳥たちの声もあまり聴こえずに、重く、ゆっくりと
過ぎゆきました。
夕刻になってようやく、せきを切ったようにバラバラと音を立てて雨
が降りだしました。辺りがその水分と空気の新鮮な流れに浸されてい
る間、いきものたちは皆それぞれに沈黙し、息をひそめているようで
した。雨がやんでしまうと、気温は随分と下がり、空気は軽く、湿気
も飛ばされたようで、窓を開けて夜風を楽しんでいると、暗がりから
リリ、リリリ‥と明るい音色が、深夜までずっと響いていました。
さて前回は環境についてを取り上げました。そして、それは精神とい
う内面と区別できるものなのかどうかを問いました。しかし私たちは
すでに固定化した精神をもっていて、それによって日々行動する傾向
にあるということを垣間見たわけです。今回は思考の本質的な機能と
いうものを調べながら、それをもう少し掘り下げて見てみることにし
ましょう。
まずは、思考の基本的な動きを知ることが大切です。思考というのは、
ものごとや体験を、言葉や絵図、イメージによって分類し、記憶する、
情報収集に始まります。これを入力作業とすると、次に、周囲の環境
や、出来事を認識した際、それに対して適切化を計ろうとするために、
蓄えられた様々なデータを比較・計量して、そこから選択・判断する
という出力作業があるわけです。
一見、複雑なものとして映るかもしれませんが、実際によくご自身の
思考をご覧になれば、この基本運動がお解りになるでしょう。そして
いわゆる学習というのは、この機械的な運動のことなのです。生きる
ための術として、また科学的技術面で、さまざまな知識を習得し、そ
れを応用、実践できるのは、この思考の運動によるものなのです。
しかし以前にもお話したように、私たちは思考だけで生きてはいませ
ん。思考は、身体に備わった部分的な機能で、全を為すものではあり
ません。私たちには、思考とは何か別のもの、思考では処理されるこ
とのできない、生きるものとしての何かがあります。それを感じるで
しょうか?
それでは実際に、固定化された精神についてを見てみましょう。それ
はどういうものでしょうか? 私たちはふだん意識しなくとも、実は
心の奥底で、支持・傾倒している特定の思想があったり、自分に関す
るいろいろな付属イメージを抱え込んでいるのではないでしょうか?
まず、人種や国籍、家系、宗教といった、環境や社会的に周りから与
えられ、刷り込まれてきたイメージがあります。それから、自分が経
験しながら蓄積してきた私の性格や、私の好みのあれこれ、そして自
分について思い浮かべる、セルフ・イメージがあるのではないでしょ
うか? そしてそれはすでに、固定されてしまってはいないでしょう
か?
生まれついた所での先天的、民族的、宗教的イメージのほか、私の好
きなもの、嫌いなものの数々、私はこういう性格だから‥という限定
した見方。そして常に人と比べながら、私はこうありたい、こうしな
くてはならない、こうあるべきだという、理想のイメージも持ってい
るのではないでしょうか?
これらのイメージ、自分に関する全ての思考運動が、私を作りだし、
また維持させているものです。私とは蓄積されたデータの固まりのよ
うなもので、それら過去の断片的な記憶を、何度も何度も思い起こす
という思考の運動そのものが、私なのです。そして何かに恐怖や怒り、
悲しみをおぼえるのは、セルフ・イメージが傷つけられたり、それを
手放さなければならなくなった時ではないでしょうか?
ではもし私の過去、私の経験、私の理想、私のこだわりなどに一切固
執せず、私のことについて何も考えていなければ、私、私‥と主張す
るものが存在するでしょうか? それとも、そこにはただ一人の人間
がいるだけでしょうか?
しかし現に私たちは皆、こんな自分が好きだとか嫌いだとか、云って
います。私は損をしたとか得をしたとか、云っています。思考はこの
セルフ・イメージをさも大切なもののように抱え、こうしなくちゃ、
ああしなくちゃ、それはしちゃいけない、私はこうあるべき、こうな
りたい‥と独りごちながら、常にイメージを膨らませ続けているので
す。
では人と接する時、話す時、お互いがこのセルフ・イメージを持って
会うと、どういうことになるでしょうか? もし意見や思想が合えば、
それはお互いに各々のイメージを強固にします。それはきっと自己満
足にとどまる、上辺だけの浅い交流でしょう。そして意見や思想が合
わなければ、そこで交流自体を止めてしまいます。相手を自分とは違
う、分離した存在としてイメージし、あらゆる可能性を遮断してしま
うのです。
けれどもし仮に一方が自己イメージも、相手に対するイメージも持っ
ていなかったらどうでしょうか? その無垢な精神は、ありのままだ
けを見通すことでしょう。英知によって、相手が持っているセルフ・
イメージや、こだわりを見通し、それはそのまま相手の行動の理解へ
とつながるでしょう。
たとえば誰かがひどいことをしたり、暴力的だったり、悲しみに沈ん
でいたり、怒っていたり、嘘つきだったり、いい加減な振る舞いをし
たとしても、その根本原因が、その人の中にある思考とイメージであ
ることが解るわけです。ですからその時は、相手に敵対することもな
いですが、かといって特別に許しも、慰めもしないでしょう。そこに
はただ理解と認識のみがあり、次の行為は自然に生まれてくるはずで
す。
イメージというのは、心に映し出される心象です。それは思考によっ
て、記憶によって生まれるものであり、イメージするというのはその
記憶や言葉をとめどなくつないでゆく運動です。
私たちは私自身の描くセルフ・イメージに縛られながらも、さらにそ
れを膨らませて日々生きているのが現状です。自分がどう見られてい
るか、自分はどうあるべきか、何をすればいいのかに悩み、その答え
もまた思考によって導き出そうとしたり、他から習得することで得よ
うとします。
私たちの行動と決断の多くは、そのイメージからのものです。理想や
観念をもとにした行動の支えとなっている柱は、何かを達成し、満足
しようという気持ちではないでしょうか? そしてそのような行動の
裏には必ず、私の自己中心的な欲望と恐怖が混ざり合っていて、それ
がまたイメージを固持させてしまう要因でもあるのです。
私たちはいつからかイメージを掲げ、何かになろうすること、目指す
ことは生きる上で重要なことだ、その過程が生きることなのだと云っ
てきました。そこでは、努力や忍耐、修練が必要だとされています。
しかし現に今ある、ありのままの姿や状態から、あるべきものへ移行
するというこの考え方こそ、摩擦と葛藤を生じさせてしまう土壌なの
です。
観念、空想、イメージからの行動、つまり思考からの行動はいつも限
定されています。思考は過去から生まれるという意味で、限界がある
のです。いくら完全と思われる素晴らしいイメージを思い描いたとし
ても、それに沿おうとする行動の結果は結局、部分的で断片的なもの
で、いつまでたっても完全には至りません。だとしたらそのような行
動もイメージも、単に破壊的なものでしかないのではありませんか?
私たちはそれに気づくでしょうか? もし気づかなければ、理想的な
幸せや、完璧で完全なるもののイメージを抱きながら、私を満たし、
一杯になるまで寄せ集め、壊しては、また寄せ集め‥。努力、葛藤、
喪失のくり返しです。それが生きることだとされています。そのよう
に幻影を追うことが、ほんとうに生きることなのでしょうか?
どうかよく見てみてください。思考は生によってはじめて真に活用さ
れるものです。それは何千年という私たち人間の生においての豊かな
知恵の結集であり、個人的な持ち物なのではなく、万人によって共有
されうるものなのです。しかし今、私たちはそれをどのように使い、
扱っているでしょう?
もし、生きるものとしての英知が、愛がなければ、思考は暴力的で、
破滅的な活動を推し進めるだけです。嬉しかった、辛かったという私
的な感情の記憶、古びた私、過去を連れたままでは、私たちに流れて
いる生という、たった今新鮮で完全なエネルギーは断片化してしまい、
本来の働きを全うできないのです。
では、このセルフ・イメージはもちろんのこと、イメージするという
運動自体を、すっかり取り除くことはできるでしょうか? これは、
思考についての正しい理解、また私たちの真の関係についてを問うも
のです。
またそれは思考や観念、イメージや理想を超えたところの、限定的で
はない、広く、深みのある親しさや交流というものが、この世に存在
するだろうか‥という、人として、生として究明したくなる、純粋な
問いでもあるのです。
ここからまた私たちは、非常に慎重に、そして注意深く見つめて行か
なくてはならないでしょう。なぜなら、イメージの終焉、思考の沈黙
が、真の瞑想を意味するからです。
