< 19 >


夏らしくギラギラと照りつける太陽のもと、熱射と熱気が日に日に強
くなり、ついに蝉の声が聴こえはじめました。まだ延々と続く大合唱
ではありませんが、きっとそれも束の間、騒々しく、皆一斉にうなり
出すことがこれから多くなるでしょう。安らぎを与えてくれるのは、
日が暮れた夜、風もあってか雲なく晴れたきれいな星空が、先週の新
月のころから続いていることです。

真夜中、真っ暗な中に立ち、たくさんの小さな星があちこちに散らば
っている空を見上げていると、ほんとうに星たちが輝き、瞬いている
のが見えてきます。今はまだそんなに熱のこもっていない、澄んだ夜
の空気で涼をとり、深呼吸‥。リリリリ、チロチロ、クィクィという
虫の声や木々のそよめきも聴こえます。夏の夜には、昼のまぶしさが
解消され、皆で息をついているような、そんな気配が漂っています。

ではそんな外気を感じながら、私たちは「環境」というものについて
調べてみることができるでしょうか? その意味は周りを取り巻いて
いる事物や状態のことですが、私たちは実際にその中で暮らし、生き
ているわけですから、それはとても身近で大切な、注意すべき、そし
てまじめに考慮すべきことがらではないでしょうか?

私たち人間の生み出してきた文明というのは、自然環境を利用し、ま
た活用することで発展してきました。木を切り、水を引き、石を運び、
土を掘り、火を起こし、組み立て、分解し‥、その全ては自然から始
まります。私たちには必要に応じて、そこにすでにあるものを工夫し、
形を変えたり、役立つものにする知恵があるのです。

そして文明の発展を助け、それを強固なものにしたのは、経験や結果
を知識、情報として記録し、貯え、他者に伝達することのできる能力、
思考です。言葉、文字、絵図。過去の果てしなく遠い時代から現代に
おけるまで、人類はこの能力を使い、応用し、発達させてきたのです。
必要に応じて環境を整え、秩序立て、生を潤すべく役立てること。こ
れが、思考の本来の仕事なのです。

私たちと環境は、常に繋がった存在です。切り離すことはできません。
もしそんなことをしたら、それは自然を否定すること、私たちを含め
た生の存在そのものを否定することになってしまいます。むろん、そ
れは言葉上でのことで、実際にその否定は不可能ですが‥。自然がな
ければ、生の動きがなければ、何も生まれないし、つくり出されるこ
ともないのです。

それでは今私たちが関わっている環境とは、どのようなものでしょう?
それは単に自然のことだけに限りません。たとえば私たちが日々の生
活の中で関係し、つくり出し、またその状況を変えようとしている数
々の問題がありますが、個人、家族、地域社会、国、地球全体‥、そ
れらどのレベルにおいても今の環境を秩序立て、整えたものにし、ほ
んとうに潤したいのなら、着目すべきところは一体どこでしょうか?

それを見いだすには、やはり日々刻々と注意深く見守ることが必要で
す。観察において、外側での出来事や状態を見渡すことは、自分の内
面を見ることよりもはるかに簡単かもしれません。が、重要なのは、
内と外の区別がどこにあるのかを見ることなのです。それはほんとう
に区切られているでしょうか? また区切ろうとするのは、何なので
しょうか?

都市部では、人工物に囲まれ、自然に触れる機会が極めて少なくなり、
自然の動きを感じとる感受性も失われます。建物がひしめきあうよう
に並び、車や人ごみの混雑、小さな空間、窓を閉め、空気や光を遮り
ますが、さて、そこからの景色はどんなものでしょうか? 空間は広
がっているでしょうか? 目の行き場がなく、精神的にも落ちつかな
いため、眺めるのはTVやPC、Mobile機器などでしょうか?

一方、頭の中では今日のこと、明日のこと、過去のこと、将来のこと、
それらが複雑に行き交い、あれこれと思いが浮かんでは消え、おしゃ
べりが続いています。あの人がああ云った、こう云った、自分をこう
見せよう、ああ見せよう、あれをしよう、これをしよう、どうしたら
いいだろうと‥。考えに追われ、時間に追われ、ぎゅうづめになると、
心身のゆとりはたやすく奪われます。そうすると、私たちの生き方は
浅薄で、粗忽なものになってゆくのです。

そして、私たちの共通意識というのもまた環境です。意識の中の、あ
る片寄った考え方や意見、思想は、特に成長期の子どもたちの無垢な
精神にとても大きく影響します。いわゆる風習、観念、制度、方式と
いうものの強制や模倣というのは、子どもの伸びやかで自由な思考や
発想、そして行動までをも次々と狭めてしまうのです。

その与えられただけで、理解されないままのイメージや言葉による束
縛は、思考を条件づけ、生の自由な動きを奪うのです。現に、成人し
た私たち大人はそのように幼い頃から培われ、固定化してしまった精
神によってものごとに反応したり、行動しています。自分とは別の意
見や信念、それを持つ人に出会うと、そこから自分を隔離しながら、
自動的に理解の扉を閉じてしまう傾向にあるのです。

では、このように固定化してしまった精神は、再び元のように柔軟に
はなれないのでしょうか? また果たして精神というものは、全く固
定化することなく、どんな流れに対してもオープンで、柔軟なままで
いることができるのでしょうか?

この疑問は、思考を持った私たち人間にとっての大いなる挑戦です。
そして、これをきちんと明らかにするためにも、最初に云ったように
環境というのはとても大切なのです。それはあらゆるものを指します
が、外的環境は、精神という目には見えない心の状態によっても変化
されうる‥つまり、その内外は切り離されることなく繋がっていると
いうことであり、生というのは、この全一性を無視できないはずです。

しかしそうは云っても、私たちには常に変化に対する不安と恐怖がつ
いてまわります。そうではないでしょうか? 根源的な変化をもたら
すのが難しいのは、私たちがこの恐怖の問題を片づけられていないた
めかもしれません。またほんとうの自由、そしてそこからもたらされ
る美しさ、エネルギーを理解していないからかもしれません。

私たち人間に、過去の思い出、栄光、幸福感、権力を持ったり、屈辱
や悲しみを味わった経験、苦痛といった心理的記憶、そして主義、思
想、伝統、信念、所有といった観念や、単なる服従、模倣から解き放
たれた、全く新しい関係の可能性はあるでしょうか?

依存、慰め、嫉妬、怠惰、支配、抑圧という考えと、その根底にある
恐怖から完全に自由であり、情熱とくつろぎ、休息と活動の自然なリ
ズムでの、素朴で、自発的な協力、共生、共歓、愛そのものの生き方
が‥?

夕刻、南に小さな半月がぼんやりと浮かび、消え行く光が西の空を赤
く染めながら、圧倒的な美しさで辺りを覆った後、空と大地にはまた
深く濃い闇が訪れました。静かな時と共に空がめぐり、そして再び夜
明けが近づいてくると、鳥たちはもう声高にさえずり始め、一瞬、空
は昨夕と同じような色に染まり、しかしそれはすぐに、白けくる朝の
明るさの中に消えていきました‥。