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梅雨の真っただ中。天気は移ろいやすく、予報もあまり当てにならな
いので、のんびりと構えて空模様を観察します。ここ数日は雨もあま
り降らずに、熱くまぶしい光が注いだり、爽やかな風が吹いたりもし
ていました。開け放たれた窓からは、枝葉や草がそよぎ揺れる音が聴
こえると共に、やや湿気を帯びた風が吹き抜け、窓辺では風鈴がチリ
コロと、外では流されつつも蝶が舞い、鳥たちはいつものように枝か
ら枝へと飛びながら見つけた餌をついばみます。

このところよく庭先に現れる、毛並みが短く艶つやとした黒猫は、こ
の家の中にいる人間がどうも気になるらしく、足音たてずにやって来
ては特に声をあげることもなく、静かにこちらの動きを見ています。
時々、目が合うので、じーと見つめ合ったりもするのですが、その間
も黒猫の耳は、風に混じる別の何かを聞き分けているようで、横に前
にと動いており、油断なく注意を怠りません。

ある時、離れたところでお互いに寝そべって、こちらも黒猫も少しま
どろみながら目をつむったりしていたのですが、そっと垣間見ている
と、それでもやはり黒猫の注意は、途切れることがないようでした。
そしてしばらくしてゆったりと起きると、スーとどこかに消えていき
ました。

遠くからは湿った風に乗って、空高く飛んでいる飛行機の音、カーブ
を曲がる車のエンジンやブザーの音、新しい建物を造っている工事現
場の音、どこかで少年野球の試合なのか、かけ声などが鳥たちの声に
混じって聴こえていました。

さて、私たちは静かに独りで過ごす、理解のための時間をもっている
でしょうか? 今が、その時でしょうか? この天空地海の自然の動
き、生の動きと共に生きるとはどういうことかを、自分に問いかける
ことがあるでしょうか? 

それは、日々の生活の中で、気の向いたほん稀にしか向き合うことの
ないようなテーマでしょうか? しかし、強いることも強いられるこ
ともなくこれに関心をもつということ自体、人の自然ではないでしょ
うか?

私たちはともすれば、自分の人生は、自らの意志、自らの手の内にあ
るものだと思いがちですが、それについてもまた、性急な早合点や判
断に充分に注意しながら、これまでに誰か他の人たちが云った数々の
まやかしや、あいまいな表現に頼ることなく、自らでもって洞察され
なくてはならない、とても大切なことではないでしょうか?

もちろん、私たちの人生は、私たちの行為によって大きく左右される
わけですが、生について本当に理解するには、行為そのものの源とな
っている自分自身の精神の成り立ちについて、解明、認識する必要が
あるのです。

それを調べるために、あれこれの信心や信念などを持ってくる必要は
全くありません。むしろそれは邪魔ものです。なぜなら信じることで
私たちは自らの精神視野を狭めてしまい、自由や柔軟性を失って、あ
るがままの全体を見られなくしてしまうからです。

さて、ではどうして今日、信じることが正当なものとして見なされて
いるのでしょうか? ここではまた、信仰というものについても調べ
てみなくてはならないでしょう。信心深いことや祈りというのは、い
つからか人々にとって尊重すべき、何か美しいものとして捉えられる
ようになっていますが、それは果たして本当なのでしょうか? 

物心つく頃から、周りの人たちが何かに祈ったり、どこかに参拝した
り、そこで何かを供えたり、唱えたりするのを見るようになります。
そしてそれは、そうするものだと教えられ、真似てもみるのですが、
もう少し成長して視野が広がってくると、信仰の対象が、人々や、地
域によって違うことにも気づいてきます。

この違いは何なのでしょうか? それは神とか、霊とか、魂などと呼
ばれるものだったり、ある人物や、言葉や、思想や、方式だったり、
それは実にさまざまなのですが、ではそもそも人はなぜ信じるのか?
‥という問いに真摯に向き合い、見い出そうとする人はほとんどいな
いのではないでしょうか?

なぜなら、私たちは自分のしてきたこと、そして現にしていることを
疑うことが怖いのです。間違うことは、だめなことと教わってきたし、
自分をなるべく正当化したいし、人からもよく見られたい。また自分
の信仰や信念を疑うには、これまでそこに費やしてきたものや時間が
あまりにも大きく、それを変えるのは悔しいし、恥ずかしいし、そこ
から抜けるのは困難だろうと思うのです。

そう、私たちは変化を望みません。外的にはあれこれについての変化
や改革が必要だとか、ワタシタチハ、カワラナクテハナラナイ、と皆
声を揃えたりするかもしれませんが、自分自身の考え方、心、精神に
ついては、まったく無頓着で、頑固なままなのです。そして人は事実、
自分の内面性に疑いを掛け、探ることは、何かを失ってしまうような
危険性をも察知できてしまうため、それを避け続けているのです。

それより、周りの皆がするようにしていれば、誰からも非難されない
し、何となく表面的には安泰です。日々の生活は忙しく、自分の精神
や、行っている行動をいちいち調べるための充分なエネルギーも時間
もほとんど持っていません。

しかし生は生き、動いています。精神の固執や執着をくつがえすべく、
生はいろんな形、思いもよらなかったような病気、災害、関係の断絶、
別離、死でもって、私たちの根っこを揺さぶるのです。

さて、人はなぜ信じるのでしょうか? またなぜ信じたがるのでしょ
う? この「信じる」ということには一体何が表わされ、隠れている
のでしょうか? その意味は、信頼すること、疑わないこと、それが
そうであると思い込むこと‥つまり、ある特定の思考に固執すること
なのです。そしてその裏には必ず、もしその信念を手放したら、私は
どうしていいか分からず、路頭に迷ってしまうだろうという恐れ、不
安があるのです。

結局、信じるというのは、私の心の貧しさ、未熟さを表しているので
はないでしょうか? 世界中どの場所でも、この信念や、固執する思
想、その中身、対象がそれぞれに違うというだけの理由で、多くの不
理解や拒絶、争いや分断、敵視や憎しみ、悲しみ、そして不幸が連鎖
して生まれています。そうではないでしょうか?

信じることはまた、それを疑いたくないがために、次第に祈りへとつ
ながっていきます。何を祈り、願い、望むのでしょう? それは私の
こと、または私が思う誰かのことなど、個人的な願望でしょうか? 
それとも人間がもたらしている、今の世界情勢への憂いからでしょう
か? 

祈れば、それは変わるでしょうか? 望みが叶い、救われるのでしょ
うか? 祈ることで、心が豊かになるのでしょうか? 祈りもまた、
私たちの目をくらまし、生そのものから遠ざけてしまってはいないで
しょうか?

私たちは、自分の中に浮かんでくる全ての思考を捕まえて、それに面
と向かって見つめなくてはなりません。それはとても困難なことかも
しれませんが、なぜそう思うのか、思いたいのか、望んでいるのか、
恐れているのか、理解のないまま結論づけずに文字通り、全ての思考
を調べてみなくてはなりません。なぜなら必要なのは信念でも、祈り
でもなく、確実な理解だからです。

それをほんとうに自分で理解したいと思う気持ち、エネルギーがあれ
ば、流されるがままでなく、思考から飛び出し、その思考の流れ自体
を形づくっている風景の全貌を見つめることができるのではないでし
ょうか? 

それは誰かに導かれるのでも、見た誰かの話を単に受け入れることで
もなく、実際に自分の目で見ること、それが理解というものでしょう。


外では降ったり止んだり、まばらな雨です。こんな雨の夜は、ひとき
わ静けさも増し、理解のための時間も自然に生まれてくるのです‥。