その日の明け方早く、辺りに光の満ちてくる気配を感じ、眠りから目
覚めました。温もった寝床の中で、少し身体の熱さを感じながらその
まま静かに横たわっていると、すでに目を覚ましておしゃべりを始め
ていたわずかな鳥の声と、時折過ぎ行く車が路面を擦っていく音、時
を刻んでいる時計の針音が、隣の間からかすかに聴こえてくるだけで、
外では風も全く無いようでした。
それは本当に静かで、新鮮で、また神聖でもある一日の始まりでした。
そしてこのように汚れのない明るく澄みきった静謐さを感じ、その只
中にいると、なぜ私たちはこの朝のようにきれいさっぱりと昨日を洗
い落として新鮮に新しく、一日一日を送れないのかという素朴な疑問
が浮かんできます。いったい私たちは日々、何を後生大事に持ち運ん
でいるのでしょうか?
世界の出来事や、状況を伝えてくる毎日のニュースには、必ずどこか
での争いや緊張、そのための策略や政策、いろんな図りごとへの期待
や興奮、また失望や怒り、悲しみがあります。片や別の場所では、き
らびやかに装い騒ぐ宴、賞賛や羨望、軽蔑や非難があり、そこには長
い間ずっと引きずって来た、複雑に絡み込まれている私たちの心理と
意識状態が映し出されています。
そして、私たちはこのありのままの現実、その局面の数々を本当に見
れているのでしょうか? それともそのどれもが、ただの遠い場所で
の出来事であり、また他人事なのでしょうか? 世界のあちこちで、
またすぐ近くのそこここでの、様々な事件、情勢、活動、その背後に
あるものを私たちはきちんと読み取れているでしょうか?
なぜならそこにはいつも私たちの心があるからです。欲望、期待、羨
望、野心、理想、失望、怒り、憎しみ、悲しみ、そして恐れ‥。私た
ちは皆、それらを知っているでしょう? 私たちの心、その気持ち、
その考え方や感情が、多くの問題を引き起こしているのであり、また
さらに複雑にしてもいるのです。
けれども、その個人的な心の問題を解決しようとするのは、いつも救
済・支援活動、自己修練や抑制など、外的な行為によってなのです。
さらには遠くへ出かけて行って何時間も意見を述べ合ったり、目標や
規制、システムを設けることで、他の人たちもまたそれらの方法に従
えるようにします。しかしそのような思考によるアプローチは、実際
私たちの心に届いているのでしょうか?
思考は、理想的で素敵な世界や、未来像をいくらでも描き出すことが
できますが、理想の追求などの限定的なイメージ、説得や駆け引き、
妥協や信念、単なる受容でもって、本当に人の心に根源的な変化をも
たらせることができるでしょうか? それには美しくも野蛮で、醜さ
をも包含している現在の私たち、人間についての真の<理解>という
肝心なものが抜け落ちてしまう、大きな危険があるのではないでしょ
うか?
例えば仮にもし私が、今とは別の環境‥貧困、戦争、専制政治や圧政
社会などの中に生まれ、暮らしていたとしたら、それを避けるために
実際に今そのような環境にいる人たちとは全く異なる、もっと理想的
な行動をしていただろう‥と云えるでしょうか?
そして、環境的にはわりと安全に暮らせていると思っている今の私に
は、何の悩みも、不満も、葛藤もないと云うのでしょうか? 先ほど
連ねたような、欲望、期待、羨望、野心、理想、失望、怒り、憎しみ、
悲しみ、恐れのほか、伝統、思想、主義など、そんな複雑な意識網か
ら全く自由なのでしょうか?
心の中身、思いや感情、その意識構造というのは、自分がどこにいて
も、またそれは誰にとっても同じであり、人々に共通しているのでは
ないでしょうか? 私たちはこのことを単なる知識としてでなく、現
実のさまざまな場面において、いつも、直に感じとる必要があるので
す。
それはまた、自分自身がどのように人々や自然、事物と関わっている
のかを見いだすことのできる、大いなる機会でもあるでしょう。関係
というのは、身近な家族、友人、地域社会のほかに、たずさわってい
る仕事、手にする品々、私たちが見聞きし、発信する情報を通じても
生じています。
真に正しい何かを起こすことができるのは、私自身を理解し、つまり
人間の心そのものを理解し、私という自我から完全に解放されている
人だけです。救済も援助も協力も、もし私が何かを恐れていたり、密
かに見返りを期待して行為するなら、それは自分自身の虚しさを見つ
けてしまい、どうにかして救われたいという、利己的な欲や思いにす
ぎないのです。
人は、強く根っこから心が揺さぶられ、真に変化の必要を感じること
があるでしょうか? それはさまざまな人やもの、出来事との関わり
あいを通して、自分の心の反応や欲求、行動そのものを、注意深く、
評価することなく見つめ、比較や分離視における私の利己性、他のも
のに対する残酷さ、誤解、過ちを直にはっきりと認識し、理解する時
にほかなりません。
そして事実それは、私自身に崩壊と消失への恐れ、おののきを与える
かもしれません。しかしそれさえをも超えゆく動き、この流れこそが
愛なのではないでしょうか?
ところで私たちは、愛をただ何か小奇麗で、ロマンチックなものにし
てしまってはいませんか? 愛は、自己中心性の中にはありません。
自己犠牲の中にも、偽善的思考や活動の中にもありません。また単な
る慰めでも、希望の先にいつか芽生えてくるような、時間性のもので
もありません。
それは完全に自由で、何の限定も分裂もなく単独でありながら、全て
の偽りを焼き尽くすほどに熱く、力強いものです。それを感じること、
そしてまた、子どもたちや周囲の人々と共に、その理解を分かち合う
ことができるでしょうか?
