一昨日の夜から降っていた雨がやむと、早朝から、もうすでに明るい
光が大地を満たし始め、それはまぶしくさわやかな一日の訪れを予感
させるものでした。毎朝、目が覚めた時に周りに感じる光の量、空気
の軽さ重さというのはとても微妙なものですが、今朝はまさにすっき
りとしたすがすがしさと、そして新しいエネルギーに溢れていました。
たぶん、鳥たちが飛び交いながら歓び合うような歌をうたいだすのも、
きっとそんな光と空気、そして風の流れを存分に味わい、楽しみ、分
かち合っているからではないでしょうか? 私たちもまた、頭の中が
あれこれの心配に占められず、思考が泳いでいない空っぽな時や、そ
んな気持ちのよいお天気の下では、ただにこにこと微笑んでしまうも
のでしょう?
さて、そのような歓びの瞬間を、単にお天気まかせにすることなく、
日々それを実感することはできるでしょうか? 私たちは、満ち足り
ないような不足感を覚えると、追い求めることでそれをカバーしよう
とするのが常ではないでしょうか? おそらくそれは無意識的かもし
れませんが、探し求めるか、隠し装うか、一時的なもので妥協するこ
とによって何気に満足するのです。
充足、安定、安全を求める気持ちはわかります。事実、それは生の領
域において必要なことでもあるのです。しかし、気をつけなくてはな
らないことは、どうして、なぜ、それらを求めたくなるのかというこ
とです。求めるのは、私という自我のため、自己満足のためでしょう
か? それとも睡眠、栄養、くつろぎなど、生理的で、有機的活動に
必要なものでしょうか?
私たちには、何かに出会い、感じると、その知覚したものをすぐに思
考を通して処理しようとする自動的なパターンが出来上がってしまっ
ています。私たちのほとんどはそれに気づかず、もちろん疑問すら持
たないままに過ごしているのですが、それは、幾世紀にも渡って勢い
づけられた、人から人へと遺伝している脳のパターン、固定化してし
まっている脳の動きなのでしょうか?
私たちの生活している社会、環境、文化そのものが、実際に、大衆や
個人による意志、野望、理想、そしてそれに対する服従、反抗、さら
には革命といった、思考から生みだされた数々の行動と活動によって、
発展と破壊を繰り返しながら形作られてきたことは事実です。私たち
が共有する意識の中で、この思考の反応パターンは、強固に、根強く
受け継がれているのではないでしょうか?
この私たちの脳で起こる反応、『知覚(感じる)→思考する』という
思考の起動パターンと、その次の、『思考(判断)→行動する』とい
う日常の行動パターンについて、人生の中で疑問を感じ、自分自身を
モデルに観察し、調べてみようとする人はどれだけいるでしょうか?
というのも、私たちの受けている教育、社会の風潮というのは、行動
する際にはまずよく考え、意志や目標を明確にし、そして伝統や理念、
主義に則しつつ、それらを目指し、達成すべきだという考えだからで
す。人類史の中で、いつ頃からこのような到達観念的な生き方が賞賛
されるようになったのでしょうか? しかしこれが現実に支持され、
維持されている、今の私たちの意識の主流です。
私たちは、物心が付くか付かない幼い頃から、安全や不安、美や醜、
驚きを感知するやいなや、脳内ではその内容を記録し選別するための
思考が働いています。そうして、思考による数々の記憶の断片は、だ
んだんと個人的な意志や、欲望、嗜好、判断材料へと変化してゆきま
す。
思考だけを重視し、活性させていくことで、私たちはこの『知覚→思
考→行動』というパターンに、完全に染まりきってしまいます。そし
て私の自己中心的な行動、また判断というのは、いつもこの思考パタ
ーンによって支えられ、為されているのです。
もし私自身の心配ごとや不安、内面の葛藤に、真摯に取り組みたいの
なら、何が根本的な問題なのかと自ら問うことはもちろんですが、ま
ずは私たちや私たちの祖先、またもっとずっと前の時代の人々によっ
てこしらえられ、継承されてきた宗教や解決法などからは、完全に自
由でなくてはなりません。なぜなら、それら数多くの方法に頼ってき
たにも関わらず、今だ世界には問題が累積しているからです。
ものに頼らず、人に頼らず、奇跡が起こるのを願ったりせずに、私自
身のすぐ内側でうごめくものをしっかり見つめてみましょう。何かに
出会ったり、触れた時には、感覚があります、そしてまたほぼ同時に、
思考による反応と処理が起こります。そこには必ず、言葉による表現
があるでしょう。言葉が浮かんでいるのは、すでに思考が働いている
ということです。
まず、その言葉自体に気づけるでしょうか? 次に、その表裏に湧い
てくる様々な欲求、欲望、野心、期待と、恐れといったあれこれにも
気づけるでしょうか? それからその後、その湧いてきたものを良く
ないとして止めようとしたり、紛らわそうとしたり、操ろうとする、
思考のしたたかさにも気づけるでしょうか?
個人一人ひとりが抱えている問題、社会の中で起こる問題、そして人
としてのあり方の問題‥。それらがいつになっても解消されないのは、
この欲求と欲望、そして思考というものについて、私たちがきちんと
理解しないまま、思考することの中に、またはその先に、安心と解決
があると思い込んでしまっているからではないでしょうか?
たとえば、何かに対して、ひどく腹が立ったとします。血の騒ぐよう
な、ムカムカとする心の状態がある時、さて、私はどうするでしょう
か? なりふり構わず怒鳴り、暴言を吐き、暴力を振るい、それを爆
発させるでしょうか? それとも冷静に何とかそれを収め、鎮めよう
としたり、回避するため、別に打つ手を考えるでしょうか?
いずれにせよ、そのような感情を引き起こした相手を、私はすでに敵
視しているでしょう。敵視とは「私」と「奴」との分割です。そして
そこから闘争、競争、権力争い‥と続いていくのですが、この「私」
と「私でないもの」の区別、もちろん肉体的な意味での区別ではなく、
心理面での区別、人間意識の分割、たとえば差別というものは、どの
ように発生するのでしょうか?
ゆっくりといきましょう。まず通常、私たちが感情と呼んでいるもの
は、心身で感じられるエネルギーの振動、揺り起こし、動揺のことで
はないでしょうか? わくわくする、腹が立つ、頭に血がのぼる、胸
騒ぎがする、胸が締めつけられる、呼吸が乱れ、脈打ち、ドキドキと
鼓動が大きくなる‥、それはまるで地震のような体内反応です。
しかし、私的感情において、その反応や、その局地的な地震の震源は
一体どこでしょう? それは明らかに、「私」というイメージであり、
思考なのです。例に挙げたこの腹が立つというのも、すでに最初から
思考を通した「私」目線があり、相手を「私でないもの」として区別
して見ているのです。このように区別すること自体が、いつの間にか
脳内で定着してしまっているもう一つのパターンだと云えるのではな
いでしょうか?
では、もう一度質問を繰り返してみましょう。腹が立った私は、その
時どうするでしょうか? もし、そこに留まり、その怒りを見つめら
れるとしたら、そのムカムカ感、エネルギーの混乱と高揚というのは、
いつまで継続するでしょうか?
実際に身体に感じる揺れは、おそらく数秒か、数分ではありませんか?
しかしその動揺が、私を他の誰よりも優先させようする分断や、差別
視から起こっているものであり、また、この思考の動きへの不注意・
不理解からもたらされているものだということ見抜けず、終わらせら
れなければ、脳は『知覚→思考』のパターンに従い、思考がその後を
引き継ぎ、しつこく過剰に反応し続けることになるでしょう。
感情の震源は、私自身、私の思考であるのに、それを問題視するやい
なや、これを何とかしなくては、と考え始めます。そして過去を参考
にこの感情は「怒り」であると分類してから、それを拒絶したり、我
慢しようとしたり、正当化するための理由を探そうとしたりするので
す。このように、次から次へと細胞分裂を続けながら取るべき行動を
探り続けていくのが思考なのです。
けれどもそのような細分化や情報の集合があっても、結局、思考から
の行動というのは、真の解消には至ることができません。それは同じ
穴の何とかで、堂々巡りをしているだけのことなのです。思考、つま
り「私」としては詳細に分析、分割、区別しながら、解決の為に積極
的に対処しているつもりでも、元を正せば、この区別すること自体が、
思考によるイメージであり、架空のものなのです。
思考には、私たちの抱いているような、全き充足感、完全性への希求
を叶えることはできません。なぜなら思考というのは、私たちのメモ
リー機能にすぎず、その内容は、限定された過去のデータにすぎない
からです。たとえいくら他人の意見を聞き、それを取り入れてみたと
しても、その人の思考も、私のものと同じく限定的なものなのです。
そうすると、私たちにできることとは何でしょう? 私の心に葛藤と
混乱を招く欲望をつぶさに見つめ、今まで当たり前のものとして放置
してしまっていたパターンの数々を、言葉を超えて突破し、理解する
こと、表情を変えては現れる私的な感情全てを、すっかりときれいに
片づけることはできるでしょうか?
そのような理解の土壌と完全な沈黙の中にのみ、思考、過去を介した
のではない、今必要とされる、真の行為が生まれるのです。
