朝、目が覚めて、そのまま横たわっていると、しばらくして裏山の方
から、ちょっとためらうような、うぐいすの声が聴こえてきました。
一年ぶりのメロディー♪ すぐにもう一度歌い直したものの、それっ
きりでしたが、晴れ渡った翌々日からは気ままな感じで、日に幾度と
なく聴こえてくるように。まだ少し冷え込むことはあるものの、陽射
しによって暖かさは着実に運ばれ、生きものたちは皆一様に春を感じ
とっているのです。
一方、春が近づく頃になると、人は身体の調子をくずしやすく、精神
的にも不安定になりがち‥とはよく聞きますが、これはなぜでしょう
か? 季節の変わり目、生体として、身体的に状況変化へ適応しよう
とする働きが起こるのでしょうが、さて新しい環境の変化は、心理的
にも何か直接的な影響を引き起こすのでしょうか?
今回は、季節的なものに限らず、心理的な不安・不安定さというもの
について、一緒に調べてみましょう。身体の不調については、もし何
らかの症状を実際に感じたり、現れてしまっているのなら、それは大
事に至る前に、休息はもちろんのこと、とるべき適切な処置や対応が
あるはずですから、今ここでは取り上げなくでもよいでしょう。
では、不安とはどういうものでしょうか? 気持ちが揺れ、不安定、
不完全、満たされず、まるで何かが欠けているようで、落ちつかない
‥そんな心境でしょうか? あることが気になって仕方がなかったり、
いろいろと考え込んでしまい、心配もさらに増してゆくような混沌さ
でしょうか?
また、急に泣きだしてしまったり、いらつき、怒りだすなど、感情が
激しく乱れたり、あるいは、もはや全くやる気が起こらず、何もかも
がどうでもよくなってしまう‥そのような状態も含まれるでしょうか?
さて、私たちは生きているこの人生の中で、満たされ、保護され、心
に葛藤なく、平穏温和で、もしもの際には頼れる誰かがそばにいて、
何も心配することがない‥というような機会や時期に恵まれることも
あるでしょう。特にまだ幼い子どもたちにとっては、そのような環境
が不可欠であるのは確かなことですが、私たちは大人に成長した後で
も、大抵そのようなイメージを「安心」と呼び、欲しているのではな
いでしょうか?
しかし、安心というのは、ちょっとした外的な作用や現象によって容
易に破られます。つまり結局のところ、その安心こそ、いつも不確実、
不安定、不完全なものなのです。私たちの知っているこの安心とは、
背後に常に不安の影がひそむ対局的なものであり、それゆえ私たちは、
安心や幸せを認識した瞬間、今度はそれを失うのを恐れるようになり、
どうにかそれをキープしようと画策し始めるようになるのです。
生におけるこの現実は、移ろいやすく、明日には何が起こるかわから
ないし、特別何も起こらないかもしれません。完璧な予測も、確実な
保障も、実はどこにもないのです。
けれども、まるでそれがあるかのように見せかけたり、その見せかけ
を疑うことなく簡単に信じ、受け入れてしまうのは、私たちが自己中
心的で、怠惰で、注意に欠けているからであり、その隙にも、思考に
よる巧妙な動きが生じるからです。今の私たちの人間関係や社会が、
事実その心理が基になり、構成されていることは、全く明らかなので
はないでしょうか?
私たちは自分自身の中、そして人々との関係の中に、大なり小なり、
いつも何らかの不安を抱えているのではないでしょうか? 自信がな
かったり、信頼していなかったり、人にどう思われるかを気にして、
いつも顔色をうかがっていたり、重圧を感じていたり、理解されない、
共感できないと思い込んだり‥。けれどその気持ちをこっそりと隠し
ながら、良い顔をしてみたり、耐え忍んだり、信じてみようとする、
中途半端でうやむやなままの気持ちがないでしょうか?
私たちにとって、居心地の悪さ、不安を避けて、安心を求めるという
ことは、理にかなった自然のことのように思われます。そして、その
ために日々、安心が得られることを目指し、努力します。しかし安心
といっても、私たちの知っているのは、あの二元的なちっぽけなもの
に過ぎません‥。が、他にどうしろというのでしょう? それ以外は
知らないのです。不完全ではあるものの、それに少しでも触れられる
場所、関係、ありとあらゆる代替物を求め、所有し、維持しながら、
やはり不安のままに暮らしてゆくのです。
さて、私たちが本気でこの不安に対峙し、直視し、眺める時、そこに
は完全性を希求している、一種の寂しさのようなものがないでしょう
か? 私の心の奥には常に、何か言い表せない不足感があるのです。
しかしいつになってもそれが真に満たされることはなく、それを埋め
合わせようと果てしなく何かを探し求めるか、あきらめて、怠惰なま
まに過ごしていくのです。
寂しさ、虚しさ‥。それは私自身が完全ではないということを知りつ
つも、どうしてよいかわからないので、何かに頼りたいと感じさせる
ものでしょうか? 私たちは心理的、精神的に、誰にも何にも頼らず
に独りあることはできないのでしょうか?
この独りあるというのは、周りとの関係を断ち、孤立し、自分勝手に
生きることなのではありません。独りあるためには、周囲で起こって
いることに気づき、それに対する自分自身の心の微妙な動き、思考の
動き、反応のしかた、そして行為にも、全面的な注意を払うというこ
とがまずなくてはならないでしょう。
ただし、動機や下心を持って、何かを期待しながら行うことは注意で
はありません。それは単なる集中です。集中とは何かを排除しようと
する分離行為であり、それは自我を拡張する動きなのです。そして私
というのは、断片的な過去に執着している、限定的なエネルギーその
ものなわけですから、いざ集中してみたところで肉体はそのうち疲れ
を感じ、結局、事切れてしまうでしょう。
しかし、そのような集中ではなく、この肉体を通してただ存在してい
る注意力というものを感じられないでしょうか? 思考をからめず、
比較、判断、評価なく、備わっている知覚の全てが開かれ、全的に気
づくことのできる、そんな注意がないでしょうか? そしてその注意
を、日常で働かせることはできないでしょうか?
心の落ちつかない、寂しさの風が吹く時、私たちはそこから逃げず、
ごまかさずに、全く独りきりでいれるでしょうか? 寂しさや虚しさ
というのは、実は洞察への機会というのをいつも携えて、そこに在る
のです。
なぜ今まで、独りになることを避けてきたのでしょうか? 独りであ
ることが、どうしていけないのでしょう? いえ、私たちはただ、独
りあるというイメージだけを恐れ、そこに実際に含まれるものについ
ては、何も解っていなかったのです。
独りあること。私自らの思考に向き合うこと。いつも饒舌で混雑して
いる頭の中身のもろもろと共に、全的な注意でもって留まることはで
きるでしょうか? なぜならその注意、気づきから、初めて何かが起
こる可能性が生まれてくるからです。それは、不安、孤独、寂しさか
らの解放、生きる上での全体性を見い出すことです。分離やストレス
のない生の全一性こそが、完全なるものではないでしょうか?
人の中でほんとうにそれが感受される時、不満や欠如感が常に漂い、
それから解放されることなど、決してないかのように見えていた人間
の意識野というもの、通常私たちが馴染み暮らしている、思考世界の
虚偽性を見抜きます。それに囚われ、その中に埋もれている状態では、
絶対に全的には生きることができないのだということが、はっきりと
解かるのです。
独り孤立するものではなく、何も手を加えられず、全てを包括してい
る生の<全一さ>こそが美、また自然であることの歓びなのです。
