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お久しぶりです。しばしの空白はいかがお過ごしでしたか? この冬
は暖かかったり、どんよりと暗く冷え込みが厳しいと思えば、急に暑
くなったり、雪やみぞれやが降ったり、まばらで複雑な空模様ですが、
さて、私たちの心の中はいかがでしょうか? 刻々と移りゆく日々の
中、その心の動きを今もなお、俊敏に絶え間なく見つめているでしょ
うか?

ではまた新たに、「私」についての理解をここで一緒に深めていきま
しょう。それも、まったく新しく始めましょう。以前、感じた何かを
心に溜めておく必要はありません。ここで新鮮に会い、対話するには、
初めから何の知識もイメージも持ち込むべきではないでしょう。むし
ろ毎回、完全にまっさらな姿で取り組むことができるでしょうか? 

ここでは何かの理論を展開して納得させたいとか、何かを信じてほし
いわけではありません。どうか、書かれていることを理知的に頭で捉
えようとするのではなく、あなたの心を完全に開き、ご自身の内側で
起こる実際の反応にもよく目を配りながら、全身で読み進めていただ
けたら‥と思います。真偽を見極める洞察が、私たちに同時に起こる
ように‥。

では今回は、私に起こるさまざまな感情のうち、悲しみについてを調
べてみることにしましょう。もしかしたら現在はわりと順風満帆で、
何の悲しみも、辛さもなく過ごせているので、それにはあまり関心が
ないかもしれません。しかし悲しみというのは、ある時、不意に私の
元へやって来るのです。

もしその本質を見いだし、超えることができなければ、突然舞い込ん
でくる悲しみに、私たちは沈み、ふさぎ込み、翻弄されてしまうこと
になりかねません。そして、悲しみについての本当の理解なしに、愛
はありません。ですから悲しみというものに迫り、それを理解するこ
とは、生において、とても大切なことではないでしょうか?

一般的に、人生の中には幸と不幸、良いことと悪いことがあり、喜び
もあればまた悲しみもある‥という、二元的な考え方もあります。け
れどもその良し悪しの判断というのは、いったい誰によるものでしょ
う? それが私によるものであることは明らかではないでしょうか? 

私というのは常に、限定的で窮屈な思考に捕われています。そしても
しそのような考え方にただ従うのなら、その生涯は、自己中心的で、
閉鎖的なまま、愛なく終わってしまうことでしょう。

ところで、実際に感情が沸き起こっている最中に、それが良いことか
悪いことかなど、考えていられるでしょうか? それを思うのはしば
らく経った後、少し落ちついた頃なのではないでしょうか? 混乱が
少しずつ静まってくると、思考は自分が体験した気持ちの揺れを分析
し、それを知的に論じてみたくなるのです。

思考は、その感情に<悲しみ>というラベルを貼って分類し、後から
それを和らげたり、忘れようとして、努力奮闘します‥。ではここで
もまた、誰が努力するのでしょう? そこには、すでに悲しみを処理
しようとする私がいるわけですが、はたして私は、それを意のままに
扱えるのでしょうか? 悲しみは、感情は、私や思考とは全くの別物
なのでしょうか? 

悲しみとして位置づける感情とは何でしょう? たいがい、それに出
会う時の肉体的な反応は、頭の中が急に狭まって、胸や喉の奥が苦し
くなり、目から涙が溢れ、泣き、叫んだりもします。なぜそのような
状態になるのでしょうか? 

頭の中で何か、思いや考え、イメージがよぎったのではないでしょう
か? それらは非常に微妙で、気づきにくいかもしれませんが、おそ
らくその状況に対して、何らかの思考の動き、想像、私の心理的反応
があったのです。

思考は、体験し、印象づけられ、記憶した以前の情景、そこで私が感
じた快適さや、幸せのイメージを思い浮かべ、反復します。しかしそ
の過程を突如遮断してしまうような、何らかの事実的ショックがある
と、直後、それを留め、固持し、引き延し、再現したい‥という望み、
欲が生まれます。けれど今の現状がその思いと一致しなければ、それ
は思考と現実の間にギャップを生じさせてしまうのです。

そのような叶わぬ希望へのストレスが、悲しみなのでしょうか? こ
のギャップによって、思考そのものが矛盾と葛藤を覚え、体内では一
種のエネルギーのもつれ、混乱が生じます。そしてこのような心理的
ストレスはさらに、生理的、身体的、精神的にも異状を引き起こすの
です。欲望を維持しつづけていればいるほど、葛藤はさらに強まり、
苦しむことでしょう。

このような状態は、人々の関係において鮮明に表れることがあります。
期待が裏切られる時、私が理解されない時、親しい者が私から去る時、
離ればなれになり会えなくなる時、死が訪れる時‥。相手を失う喪失
感、寂しさと孤立感に加え、願いや望みを果たすことのできない無念
さ、またそれまでは何の疑問も抱くことのなかった私そのものの存在
が、急に不安定に感じられ、崩壊してしまうような恐れを抱くのです。

けれど、この悲しみを深く深く見つめると、状況的、表面的な理由で
はない、その真の根っこというのは、外側にではなく、内側で欲望を
常に保ちながら、思考している時間‥、その思考運動そのものにある
のではないでしょうか? 

私は、常に頭の中で過去・現在・未来と思い浮かべ、時を刻んでいま
す。この私特有の時間を頑なに保持したまま、惜しみ続け、記憶、イ
メージを手放さない。この、手放さない、手放せないことが、悲しみ
の生じている根本的要因でしょうか?

思考は「〜したい、〜でありたい、〜であればいいのに‥」と云い、
その望みを何とか解決しようと、私が分離出現します。しかし実のと
ころ、私も欲望も、思考から派生したものであり、分かれてはいない
のです。なのにどうやって、その一片だけをお終いにすることができ
るというのでしょう? コントロールはできないのです。つまり結局、
思考によっては真の解決には至れないことがお解りいただけるでしょ
うか? 

さて、仮にどうにかこうにかして、ある欲望を満たすことができたと
します。しかしそれが幸せというものでしょうか? 一時的な満足感
がほんとうの幸せでしょうか? きっと近いうちにまた何か不足感が
現れ、それを補うための別の欲望が生まれ、葛藤、苦しみ、悲しみ、
そして努力と、辛抱‥それは延々と繰り返されていくでしょう。そし
て私という自我は、そんな心の隙間に着々と強固な根を張るのです。

また、悲しみを終わらせるための別の解釈として、「それなら、私は
なるべく考えることを止め、無欲に生きることにしよう。現実をただ
受け容れることにしよう」と宣言したとしても、残念ながらそこには
全く理解がなかったのです。これは、私の決意とか、それを受容する
しないの問題ではありません。なぜならその心の奥底では、ギャップ
は依然として存在しているからです。ただ目をつぶるだけでは結局何
も変わらずに、生は不完全燃焼のままくすぶり、異臭を放っていくで
しょう。

けれど、本来、私たちは自分の心の現状、状態に気づくことができま
す。それをしっかり把握することができるのです。

では、ここで最大の注意を払ってよく見てください。この内側に生じ
ている葛藤、痛み、ストレスについて認識しているのは、思考によっ
てでしょうか? ‥そうではないはずです。そこで、もしそのような
葛藤や痛みを認識したら、次はそれがどのように生じているのか、自
分の心、思考の動き、その深みを、ひとり静かにきちんと見つめるの
です。

頭脳をいつもいつも思考に乗っ取られてはいませんか? 知覚という
のは、瞬時のものです。そしてまたそこからの英知は、私たちに即時
の行為を要請します。それは過去の情報を収集したり、じっと考え込
むことから生まれるのではなく、思考に立ち入らせずに無時間に起こ
るのです。これこそが、気づくということなのであり、それは精神が
一気に、全的に目覚めることなのです。

私たちがたぐいまれなる注意深さで、この事実を真に理解することが
できれば、それは私たち自身に、非常に大きな変化をもたらすことで
しょう。なぜならそこにはもう私を哀れんだり、嘆く者はいませんし、
あらゆる利己的な悲しみから解放されている、ただ自由で全的なエネ
ルギーがあるからです。

ほら、可憐な梅があちらこちらで咲きほこっています。生の流動、冬
から春への、美しい移り変わりです。