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連日の暖かさで乾いてしまっていた大地や木々を潤しながら、二晩、
雨と風が通り過ぎた後は、空気がずいぶんと冷たくなっていました。
明けて空は青く、陽ざしも目に眩しいのですが、北の地方ではこの寒
気で早くも雪が降り積もったとのこと‥。この辺りに本格的な寒さが
やってくるまでのもう少しの間、お日さまと仲良くし、窓を開け放し、
外へ出ます。

あちらこちらの通りの街路樹、公園を囲む木立、小さな山々が、だん
だんと少しずつ色濃く染まりはじめるちょうど今ごろの季節は、何と
も云えない穏やかな気分にさせられます。歌を口ずさみ、時に耳を澄
まして鳥たちに歌い手をまかせ、遊ぶ子どもたちをながめながら、葉
や枝や髪が風に揺れ踊ります。

さて、周りにはいつも新鮮でたゆみない、生の動きがある一方、私た
ちはこの上なく美しく、素晴らしい、生の活き活きした瞬間に出会う
時、すぐにそれを思考や言葉によって捉えようとはしないでしょうか? 

そして普段の慌ただしく、あまり冴えない生活の中で、決して今のこ
の現実を見ようとはせずに、断片的な記憶をたどったり、自分がイメ
ージした完全性を目指して、それに近づくことを求めながら過ごして
はいないでしょうか?

私たちは云います。「また再びあれに出会いたい」「それを叶えるた
めに頑張ろう」そして、「そのうちきっと巡り会えるだろう」‥それ
らの言葉は希望として将来へ持ち越され、延期されていきます。

また、希望が持てず、可能性がないと判断してしまった時には、「い
くら努力しても無駄だ」「ありえないことだ」とつぶやき、絶望は過
去の思い出やイメージを封印しながらも、未消化のまま引きずってい
くのです。

この希望・絶望について、どちらが良い悪いとは云えません。ただし
どちらも偽りではないでしょうか? 生の流れの一瞬が再び繰り返さ
れることはありません。希望も絶望も、それらは思考の中だけで展開
され、言葉と時間を言い訳に、私たちは真実と向き合うことからズレ
てしまったのです。

では問題は、思考することにあるのでしょうか? いえ、決してそう
ではありません。問われるべき本当のことは、日常の中でこのように
微妙に作用する思考の動きに私たちはきちんと気づき、またその巧妙
さを見通せるか?‥ということではないでしょうか?

そこでまた私たちは現状を、自分の内面、今の私の感情、心身の状態、
周りとの関係における存在性などを観察し、見つめてみるのですが‥、
どうやらそこには、誰もが陥いってしまう大きな難題があるようです。
それは言葉を発すること、言葉によっての形容です。

言葉での言語化は、思考の基本です。見たこと聞いたこと感じたこと、
何でもかんでも言葉に置き換え、転化し、すり替えてしまうのです。
「私は○○だ」「それは△△だ」「ああだこうだ」と、それは果てし
なく続きます。

言葉はただの説明、思考による限られた判断であり、実際に在るもの、
感じているものとは別の代物です。それはちょっと羽織ってみた仮の
衣装だったはずなのですが、私たちはその事実をすぐに忘れてしまい、
この言葉こそが重要なものとしてすり替えられてしまうのです。

人は、この誤りの重大さを見落としています。言葉での説明、定義、
数々の表現を集めることに夢中にはなるのですが、それらの叙述自体
にどれだけ真の価値があるでしょうか? 言葉というのは生の息を止
めてしまいます。仮の服の下にあるその生身の体、自然、真理には全
く触れずに終わってしまうのです。

世間、一般社会は、「希望を持とう」「頑張ろう」「努力しなくては
ならない」「あれやこれやをしなくてはならない」と口々に云います。
しかし言葉というのは思考を励ましはしますが、生について真の理解
をもたらすことはありません。それはただ、同じ思考という海の中で
あっちからこっちへ、行きつ戻りつ、浮いたり沈んだりしているだけ
のことなのです。

言葉を発する時には、すでに思考が発動しています。それは古い出来
合いの枠で型取ることであり、また自らを壁の内に閉じ込めることな
のですが、現実の私たちは、やはり言葉に頼りがちです。わからない
ことがあると不安ですし、それを回避するために何とかしたいと思い
欲するからです。そして、言葉の着物を一枚羽織ると、何となく解っ
たような気になってしまうのです。

しかし観察と洞察からの理解、全的な知覚には、言葉も思考も、居場
所はないでしょう。むしろそれらは消え去っていなくてはなりません。
そこには静寂と慎重さ、注意深さがなくてはなりませんが、言葉は必
要ないのです。

真の発見、理解、悟ることは、頭の中での思考とは全く別の次元で起
こるのではないでしょうか? そこは、一点の曇りもない、醒めた、
沈黙の世界であり、言葉では測ることのできない深遠な世界‥。全で
あり、空であり、終わりも始まりもない次元なのです。

ただしそこでの理解には、実際、頭脳や身体の奥深くで感じられる変
化があるはずです。複雑に入り乱れていた思考の混乱が消え、秩序立
ち、自然の生に備えられている英知が動き始めるのです。

その時初めて、私たちは思考や言葉のもつ意義、働きを理解し、それ
を正しく、的確に用いることができるでしょう。思考や言葉は、生き
ること、人々との関係のために使われ、またそこに正しい関係、交流
が生まれるのです。それが私たち人間に秘められた、大いなる可能性
なのではないでしょうか?

言葉‥。さて、この場でも私たちは言葉を読み書きしているわけです
が、情報をインプット・アウトプットするだけの読書や会話は、たと
えそれがどれだけの量を為していても、あまり意味はないでしょう。
ただの知識で終わることと、虚偽・真実を実際に知覚し感知すること
との間には、雲泥の差があるのです。

それに何をするにせよ、行動することだけが直接の理解を生み出すわ
けではありません。理解は、真偽を見極めようとする真摯な注意深さ、
静寂の内にある精神から自然にもたらされるのです。とすると、ここ
での読書や対話に意味があるかないかというのも、きっと、私たちの
姿勢によるのでしょう。

自然、英知は、私たちの生理に、実際に直接的な影響を与えます。そ
れは私たちの存在自体が自然なものだからです。ところが、思考によ
る言葉や人工物というのは、思考への作用のみに留まります。

日常、社会関係の中では、個人的な感情に振り回され、喜んだり、悲
しんだり、励まされたり、落ち込んだりするかもしれませんが、実の
ところそのようなものは、生そのものにとっては何ら関わりのないこ
となのです。

もし、心身が病んでしまったり、活力なくエネルギーに乏しいのであ
れば、それは生への不理解によって起こる、全く自然な現象でしょう。