空気が乾いてヒンヤリとし、窓越しの景色も町の中も、かなり色濃く
黄や赤に染まってきました。季節の移り変わりと共に、ようやく一年
が経とうとしています。
私たちはこれまでにどれぐらい、自分の考えや気持ち、日々の行為や
活動とその動機、周りで起きていること、周りとの関係、また、常に
新たに生まれてくる反応や感情、判断や行動の為し手である「私」に
気づくことができたでしょうか? そして、いつの間にか眠らせてし
まっていた感受性は、再び目覚めたでしょうか?
心というもの、そして生の本質、真理を見い出すために、私たちはこ
こで、見つめ感じること、観察、知覚、洞察すること、人間の英知、
思考、習慣やパターン、それから、「私」、理解することへの情熱、
自然、私たちの中にある感情、安心への欲望、生と死、言葉などにつ
いて取りあげ、調べてきました。
もちろん、云い及んでいないことはまだたくさんありますが、私たち
はここで一緒に、人間の意識全体を調べているのだということを改め
て記しておきたいと思います。私たちの一人ひとりが、自分自身の心、
内面を見つめ、その複雑さを調べ、問題に向き合うということは、今、
社会で起きている様々な問題にも直接触れていることになるからです。
個人と社会は、決して線引きして隔てられるものではありません。私
の存在が社会を生んでいるのです。そしてその社会には、私たちの意
識がそのまま現れているのです。
では、私たちの社会を形成する、私たちの「意識」というのは何なの
でしょう? 普段、何気なく使っているこの言葉の意味は、今ではか
なり多様化しているようですので、慎重に、注意して見てみましょう。
すると、日常的に使われる「意識」には、およそ二つの世界が混同し
てしまっていることがわかるでしょう。
一つめは、目覚め、気づき、ものごとを正確に知覚・認識できる状態
のこと。生の空間、自然、宇宙に在ることを自覚し、他者や自然と、
交感したり、共有できる状態です。
二つめは、「意識する」「意識的に」「我々の意識」と云うように、
考えたり、関心をもつといった、何かを意図する思考の動き、意志、
またその思想のことであり、そこにはいつも「私」と、対象や目的が
存在しています。それは私たち人間だけに通じる、イメージや観念の
ことなのです。
さて、もともと誰のものでもない自由な空間、宇宙は、私たちの生命
の根源であり、源泉です。その全を為すスペースで、森羅万象‥目に
見えるもの見えないもの、事物と現象、その全てが刻々と生まれ、そ
してまた消えていきます。
人間特有の意識空間というものが、もし何の軋轢、葛藤もなく、閉ざ
されずに、自然全体と調和した、穏やかな共存関係であるなら、おそ
らく何も問題はないのでしょう‥。が、実際は、私ひとりをとって見
ても、それはひどく限定的で、複雑で、不明瞭なのです。
現実のものとして、それは、長い長い時間を経ながら様々な方向に分
裂した、ありとあらゆる思想や観念、また感情が無秩序に並び、蓄積
されたままに放置されている、ある種の構築物といえるのではないで
しょうか?
そしてそれは、個人の意識として独立した存在にも見えますが、実は、
さまざまな共有の元に成り立っています。他の誰かが考えたことを取
り入れたり、組み合わせたり、排除してみたりと、断片的な思考が次
から次へとたちまち入れ替えられるのです。
このような個々の意識の集合が、人類全体の意識であり、つまりは、
私たちの暮らしている社会なのです。それもまたもちろん、現実のあ
らゆる事象を可能にする、あの自然の共有スペース、宇宙空間の中に
存在しているわけなのですが、さて私たちの人間意識は、そのあまり
の複雑さゆえに、もはや手がつけられないほど混乱し、滅茶苦茶なの
でしょうか? そこに真の秩序が生まれることはないのでしょうか?
私たちは日々、自分の限られた思考空間の中に没頭し、夢中になり、
努力、達成、失敗、成功、獲得、損失、競争‥、それが生きることな
のだと錯覚してしまっています。それは、あの広大無限なスペースの
ことを日常的には忘れ去っているということでしょうか? それとも、
まったくかけ離れた、別の空間なのだと考えているのでしょうか?
ところで、私たちは皆、ほんとうはどう生きたいのでしょう? 皆、
何を考え、何を望み、何を拒むのでしょうか? 私たちの根底にある
真の願いは何なのでしょうか? それは人ぞれぞれ、全く異なってい
るでしょうか?
私たちの意識とは、私たちに共通する心のことです。私たち人間には
心が備わっています。それは感じ、考えるということであり、またそ
の空間です。では実際、私たち一人ひとりの心の中はどのようなもの
でしょうか? 常日頃、何に関心があり、何を思っているのでしょう?
私の意識、心の中には、「私」自身に重要性を与えてくれる、実にた
くさんのイメージ、記憶、願望、理想、観念、信念、ことば、言葉、
コトバ‥が混沌と溢れ、ところ狭しと積み上げられています。そんな
破片の瓦礫の中でうずくまり、身動きがとれなくなっている「私」が
見えるでしょうか?
「私」とは、一体何なのでしょう? 私たちは、それを理解しなけれ
ばなりません。その理解なしに、この混沌から飛び出し、自由になる
ことはできないのです。ですからどうしてもこの「私」を調べる必要
があるのですが、それは日常の中でのたゆみない自己観察によっての
み、暴かれます。それは、「私」が登場するどんな些細な瞬間も逃が
さずに、はっきりとその過程に気づくことなのです。
そのような観察によって、「私」とは、固執しようとするエネルギー
であることに気づいてくるのではないでしょうか? ある意見や観念
に、人や物に執着するエネルギー‥。それらは以前、私に安心を与え
てくれたかもしれませんが、今、固執しようとしているその全ては、
過去のもの、経験、イメージ、記憶、言葉、思想ではないでしょうか?
人は、「私」に、そして過去のあれやこれやに縛られたまま、ものご
とに固執し、固まり、この自然空間の中で無秩序な存在のまま、留ま
るのでしょうか? もはや、生の全体としてあらゆる自然を慈しみ、
謙虚に、純粋に、そして完全な自由さで天真爛漫に生きることはでき
ないのでしょうか?
私たちは瞬瞬刻々と気づき、俊敏で、まったく自然な意識状態、覚醒
状態に(もちろん一時的にではなく、またどんな薬物にも頼らずに)
あることができるでしょうか? 「私」という自我のフィルターなく、
さまざまな思考、記憶の壁越しにでもなく、ものごとを歪曲せず、ま
っすぐ明晰に、全体的な視線で捉えることができるでしょうか?
それは私たちの精神が、思考を超え、凛として静謐な、しかし、常に
流動的な空間に、完全に、全面的に在ることを意味します。が、ただ
そこに在るだけで、それをわざわざ証明してみせる必要さえありませ
ん。しかし、周囲のどんな状況下にあっても、精神は、決してそれを
見失ってしまうことはないでしょう。
ではそのような精神で、右往左往と迷い、さまよっている人間の意識、
社会を見つめた時、何が起こるでしょうか? 私たちの身体を通して、
生きるものとしての純粋で、むろん正しい行為が、自然と現れてくる
のではないでしょうか?
生というのはまさに泉のごとく淡々と湧き出ずる、清澄なエネルギー
なのです。
