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朝、起きて窓から遠くに目をやると、内側に光を抱きながら大きく連
なっている分厚い雲々の切れ間から、抜けるように明るく澄んだ青い
空が一片、輝いていました。が、それもしだいに流れくる灰色の雲に
覆われ、辺りは鈍く暗い世界に変わり、すぐに雨が降りだしました。

屋根をぴしゃぴしゃと跳ねるような騒がしい雨から、しばらくすると
しとしと静かな気配がただよい始め、空からの光も増してきた時、た
くさんの小鳥の声が聞こえてきました。それはいつも群れをなしてや
ってくる小さなシジュウカラとメジロで、小雨の降る中でも元気一杯
に飛び交い、濡れた木の枝や葉についている何がしかをついばんでい
るらしく、あっちでこっちで、もそもそと茂みが揺れていました。

その傍らにあるローズマリーの花のついた穂先では、白いちょうちょ
うがそうっと羽根を広げながら蜜を吸っており、そして木々の間では
透明な糸を大きく何重にも張り、雫の粒でキラキラと光る巣の真ん中
に、縞々の長い手足をしたクモが時々雨風にあおられながらも、じぃ
っとしていました。

だんだんと小鳥達の声は遠ざかり、消えてゆき、そのうち潤いの雨も
やみました。その後、急に辺りがどんどんと光に満ちてきて、ついに
太陽が現れ、鋭い日差しを放ち、暖かい気配が辺りを圧倒的に覆いま
した。茂みの後ろからは、り、りり、と虫の声がしばらく響いていま
した。

生は瞬瞬刻々と新たな変化をとげています。どの一瞬もまったく新鮮
で新しいのです。けれども人間だけは、それとは異なる、別の世界に
閉じこもって生きているように感じます。それは人の手によって、思
考、意識によって作られた人工の世界のことです。

誰しも、時々は味わうことがあるのかもしれませんが、自然の中で息
をつき、静かに、今あるままの自分をただじっと見つめることがどれ
ほど大切かというのは、<生>を実際に感じることがなければ、きっ
とわからないでしょう‥。

そうでなければ、私たちの複雑で入り乱れた、無秩序な思考はいつも
せわしなく、止めどなく動きまわり、ただつかの間の楽しみ、満足、
安心、安定を追い求めることに、ひたすら躍起になるのです。

しかしそのようにして得られるのは結局、不完全なものであり、忘れ
ることはできても、淋しさ、悲しみ、虚しさ、心の不安定は、遅かれ
早かれ必ず舞い戻ってきます。そしてまたさらなる欲求が、必ず後に
続くのです。

まるで、何かの依存症のようですが、私たちが生きているのは実際に
このような生に過ぎないのです。事実それは、思考にどっぷりと依存
してしまっていることを意味しないでしょうか? とすると人間は皆、
多かれ少なかれ精神を病んでいるのです。

どうか、私たち皆がそうなのなら私だって少しぐらい別に平気だろう
‥と暗に思わないでください。このような生のあり方に疑問を持ち、
人の精神、思考の本質、その適性がどういうものかを調べ、見いだす
ことへの情熱はおありでしょうか?

私たちは、過去を引きずらず、それを置き去り、そこから飛び出し、
理想も推測も、価値基準も判断も、特定の主義も思想も、そしていわ
ゆる希望さえも、心理的に一切合切何ものも持ち運ばずに生きること
ははたして可能でしょうか? 実はこの問いこそが、私たちの抱えて
いる生と死の問題に大きく関わるものなのです。

まず、私たちは死を恐れてはいないでしょうか? 生と死は隣合わせ
です。私たちの肉体には必ず終わりがあり、人は一生を終えるのです
が、この場合、肉体とは有機体、自然のものです。新しく、瞬瞬刻々
生まれ、そして死ぬ。細胞をはじめ、この運動そのものが生であるの
に対し、私たちが抱く死への恐怖とは、いったい何なのでしょうか?

恐れ、恐怖については、少し前に一緒にここで調べたことがあったと
思います。それは「私」に危機が訪れ、変化を求められる時、それを
拒絶したいという欲望、つまり思考によって、生じるのです。

死について考え、また実際に死に直面すると、目前に「私」の固執す
る全てがあらわになります。今まで「私」を生かし、支え、またおそ
らくはしがみついてきた所有物、財産、人々、考え、信念、思い出、
夢‥、それら全ての「私のもの」を失いたくないと思うでしょう。

死とは、自然、無に還ること。それもまた、生の動きの一部なのです
が、しかし思考は黙っていられません。今まで積み上げたものを消し
去りたくはないのです。なぜなら「私」はそれらによって成り立って
いますし、逆に云えば、それらなくして「私」は存在できないからで
す。

「私」がなくなるなんて‥、全てを手放さなければならないし、まだ
あれもこれもやってないのに‥どうしよう! このような想像が恐れ
を招くのです。

それでは、私たちは毎日、瞬瞬刻々と、心理的に死ねるでしょうか?
それはつまり「私」が死ぬということです。イメージを持たず、溜め
込まず、引きずらず、起こる感情を見つめ、その場でお終いにするこ
とはできるでしょうか? この死、この完全な終焉こそ、実は本当の
意味で、生きる、ということなのです。

生死は分かたれてはいません。分けて考えようとするのは思考なので
す。もし私たちが今のまま、思考に、記憶に、知識に、過去にこだわ
り、ちっぽけな自己の中に留まるなら、私たちは実のところ生きては
いないのです。朝起きて、単に昨日の続きが始まるような生は、思考
に侵された虚構、偽りの生にすぎません。当然そこには愛も平和もな
いでしょう。

思考を止めようと努力せず、求めすぎず、逃げず、ごまかさず、ただ
いつもきちんと見つめていること。自分の中にある全ての疑問に向き
合い、決してあせらずに、自然に理解が生まれてくるのを待つのです。
ほんとうの理解は、向こうからやってきます。

<生>は動いているのです。