大地を揺り起こす地震、天空に渦巻くタイフーン‥。共に大きなエネ
ルギーが轟いているようです。そして、やや陰りがちだったこの夏の
天候は、農作物を始め、生態系にどんな影響を与えたのでしょうか?
同じ生の流れの一部として、私たちはそれに逆らうのではなく、よく
見守り、理解し、共存することが求められているように感じます。
自然は時として、私たち人間が積み上げ、築き上げてきたものを一瞬
にして奪い去り、消去します。建築・建造物、設備のほか、そこにま
つわる歴史、思想、象徴、そしてまた生命宿る肉体をも‥。しかしそ
れは私たちに悲しみを与えるだけの、私たちとは分離している現象な
のでしょうか?
生について理解するには、単に理論を学ぶのではなく、今実際ここに
ある、自分自身の生にきちんと向き合わなくてはなりません。そして
それは等しく死というものをも見つめることを意味しています。
なぜなら在ることが当たり前だと思っていたものが、ある日突然消え
去ってしまう時、死の意味を知らずして、それは私たちには大変受け
入れがたく、悲しみ、苦しみ、激しい葛藤と、そして虚しさまでもを
もたらしてしまうからです。
では、この生と死の問題に迫っていく前に、いつもの質問をさせてく
ださい。私たちにとって毎日の生、人生、生活‥朝起きて、身支度を
し、仕事や勉強をする、人と会う‥、その糧となっているものは何で
しょうか? 日々私たちを動かしているエネルギーとは、どのような
ものでしょうか?
私たちは通常、日々の行動の為し手は「私」だと思っています。思考
から完全に独立している「私」という存在がいて、この「私」によっ
て思考を用いているという分離感覚があるのです。ですが果たしてこ
の分離は本当でしょうか?
その事実は、当の思考に見抜くことはできません。なぜならそれらは
表裏一体で、ひどく密接しているからです。それを見抜くには思考が
消え、全的な知覚による洞察が起こらなければなりません。洞察とは
考えることではないのです。
もしいつも心がざわめき、疲れ果て、洞察に必要な静寂もエネルギー
もなく、知覚が鈍化したままで、その真偽を見抜けないというのなら、
事実私たちの心は、全くの停滞か、むしろ病み進んでしまっているの
ではないでしょうか?
思考は、私たちの脳に備わっている情報処理機能です。その運動の性
質は分断化・細分化であり、さまざまなイメージ・情報を集め、連結
させ、蓄積することはできますが、それは常に流動的で、限定的で、
不安定なのです。記憶の断片の寄せ集めである「私」は、まさにこの
思考そのものであるゆえに、大変不安定なのです。
にもかかわらず、通常万人に受け入れられている「私」の存在に対す
るこの分離の虚偽感覚と概念は、私たちに疑いなど少しも起こさせな
いほどあまりにも世俗的で強固なものであり、それは時代を経て積み
重ねられた文化的、社会的、環境的、伝統的な、固定観念なのです。
なぜ私たちは「私」をそれほどまでに保ち続け、頑として手放そうと
はしないのでしょうか? それを明らかにすることは「私」たち、つ
まり人類全体の意識についてを問い、その奥底までをも調べてみなけ
ればなりません。
では一緒に行きましょう。大切なのは、ただただ「私」に気づいてい
ること。判断も選択も解説もはさまずに見つめ、知覚することです。
刻々と事実を見守り、何も変えようとせず、常にはっきりと、ありの
ままと留まることはできるでしょうか? 外的な影響を理由にするの
ではなく、自らの内面において、「私」の存在を強固にし、力づけ、
正当化するものが何なのかを見極めるのです。
さて、「私」は、いつも何かを欲しているのではないでしょうか?
何を求め、何を望んでいるのでしょうか? いわゆる個人的な希望や
願望、夢として語られることは、〜になりたい、〜したい、〜を持ち
たい、〜に行きたい‥などあらゆる数々の欲望がありますが、そこで
終わらずに、「〜したい・したくない」と表現されるものの、さらに
ずっと内奥を、注意深く見つめてみるのです。
そのように全ての欲望を突き詰めていくと、表現はさまざまであれ、
結局人は心の奥深くで、安心を求めているのはではないでしょうか?
たとえそれが一時的であろうとも、不安定さと虚しさを埋めるための
安全、安らぎ、くつろぎ、平穏を求め、日々行動しているのです。
生理的、肉体的においてそれが必要であるのはもちろんのことですが、
しかし私たちは、個人的精神面においてもそれを求めています。失敗、
混乱を避け、動揺させられたくない。いつもなるべく、平穏無事でい
たいのです。
それゆえ思考は毎日せっせと壁を建て、「私」を守ります。そして他
人と比べ、優越感を求めます。権力があれば敷地を汚されず、他人に
従わずに済むし、努力し、積み上げれば積み上げるほど、それは達成
感という満足となり返ってきます。けれど、いつも孤独であることは
耐えがたいため、時々、壁の隙間から交流し、また偶然味わえる共感
によって自分を慰めているのです。
そして後になって、高く高くそびえたその壁の内側で見上げながら
「あぁ何だか空が見えにくいし、息苦しい。もっと自由があればなぁ
‥」などとつぶやくのです。そしてようやく「これでは日が当たらず
に凍えてしまう‥。どうしたらこの壁を取り壊せるだろう?」と問い
始める頃には、エネルギーを使い果たしてしまっていて、もうクタク
タのヘトヘトです。
さて、このような人生が本来の生なのでしょうか? 競い、争い、悲
しみに出会い、苦悩し、稼ぎ、食べ、眠り、幾ばくかの楽しみと、束
の間の喜び‥。そうして死はその先で、私たちを待ち構えているもの
なのでしょうか? そのような生死に、何らかの真の創造はあるので
しょうか?
私たちが度々見聞きする死についての概念は、あまりにも頼りなく、
明晰さに欠けています。好き勝手に何かを信じることはできるかもし
れませんが、そこに完全な確実性はないのです。
死とは、その本質とは何でしょうか? それを見い出すべくおのずと
湧きあがってくるエネルギーはそこにありますか?
