広い広い芝生の傍らの、大きな大きな巨樹の横に座っていました。そ
の日はいくぶん乾いた風が吹くものの、とても静かで、枝や葉は時お
り揺れる程度、太くがっしりとした幹と根っこはびくともせずにそこ
にじっとしていました。一緒に静かにしていると、まるで時間は消え
てしまったかのようでした。動かずに、ずっとずっとそこにいる樹は、
黙ったまま、その存在だけで何かを発しているみたいでした‥。
自然とは、生命です。自然は生きていて、それもただ純粋に生きてい
ます。でも私たちはどうでしょうか? 私たちの暮らしている込み入
った複雑な世界では、純粋さは失われてしまうのでしょうか? もし
くは、私たちはもう、純粋さだけでは生きられないのでしょうか?
そもそも、なぜ複雑な世界が生まれるのでしょうか? 例えば、複雑
な機械とか、複雑なシステムを作り上げるのは、過去のデータをこと
細かに分類し、蓄積し、それを組み合わせてゆくという、思考の為す
技によるものですが、その機械やシステムを作動させるにも、複雑な
がらも一定の秩序が必要です。適当で、いい加減に扱うのでは、せっ
かくのものもきちんと動かすことはできないし、何も建ちません。
ですから私たちの外的かつ身近な世界、つまり社会における人間関係
においても、秩序が必要なのはもちろんのこと‥と頭では解っている
はずなのに、実際はそううまくはいっていないのです。
では私たちの内面はどうでしょうか? そこに秩序はあるでしょうか?
あれを望んだ次の日には、もう別のそれが欲しくなったり、遠い過去
の出来事と、その時の感情をいつまでも持ち運んでいたり、人の云う
ことに考えなく流されたり、逆に頑になってみたり‥、その日気分で
あいまいに、自分の気持ちや感情をやり過ごしてはいないでしょうか?
ではさて、この感情というのは何なのでしょうか? 私たちがイライ
ラしたり、怒ったり、嬉しくなったり、好きになったり、嫌いになっ
たり、悲しんだり、恐くなるのはどうしてでしょうか? そのような
感情が起こった時に、それをじっと見つめてみたことはありますか?
実はそこにはちゃんと「見られるもの」があるのです。
感情には、実は2種類の流れがあります。一つは、生命体として自然
に起こるもの、もう一つは、私的に反応して起こるものです。ですが
調べてみると、日常的な感情の、そのほとんどは私的なものでしょう。
つまり「私」が何より大事なわけです。自分を守りたい、傷つきたく
ない、褒められて、認められたい、自分の考えこそが正しい、という
「私」中心の気持ちから起こっているのです。
しかし「私」というのは、記憶の断片から構築されたイメージにすぎ
ません。そのイメージ自体が不安定なものですから、当然それを補う
ために何らかの確証を求め、イメージをさらに頑丈にしようとして思
考もさらに働きます。それは必然的に「安心したい、していなければ
ならない」という気持ちとなって表に現れるか、ちゃっかり裏に隠れ
ているでしょう。
感情が起こる時、何の判断もせずに観察してみましょう。今まで積み
重ねてきた「私」、大切だと思っている全てのイメージの連なりに危
機が訪れ、衝撃があると、怒りや悲しみが起こります。さらに、その
構造自体が脅かされようとしている時、また変化を求められる時には
恐れが起こります。
そして、「私」が守られたり、助長されるとうれしさとなって現れて
くること、また「好き」は「私」にとってのYESであり、「嫌い」は
「私」にとってのNOであることが見えてきます。
もしも「私」から解放されており、無我で、そこに英知が働いている
のなら、何かものごとが起きても、全体像を眺め、その起因を即座に
理解します。理解することで、溜められることは何もなく、私的な感
情も起こりません。そのまま、事実は通り抜けてゆきます。が、それ
は決して何の感情も抱かない、不感というわけではないのです。
なぜなら私的ではなく、もう一つ、生命としての全的感情というもの
があるからです。私たちは、生命の強さ、偉大さ、そして繊細さに触
れる時、歓喜に満ち溢れたり、愛を感じます。またその一方で、生命
に対する人間の愚かな行いを目の当たりにして、悲しみをおぼえるの
です。それは、ただ純粋な感情で、複雑さはかけらもありません。
そして人は自然に、誰に教わることもなく、これを感じることができ
るはずなのですが、残念ながらその感度は、ひどく鈍くなってしまっ
ているようです。
自然は私的なものではなく、全的な生を為すものです。だからこそ、
自分に起こる全ての感情とパターンを見守り、直接「私」を見、理解
しなければ、調和の生まれる土壌は生まれません。
そう、一番最初にした「私」プラグの話を覚えているでしょうか?
実はプラグを抜くのは「私」なのではありません。巧みに息をひそめ
ている「私」に気づき、その存在の虚偽をきちんと見抜く時、プラグ
はもはや跡形もなく、自ずと消え失せているのです。
「私」から解放されており、全く何の恐怖もない状態こそが、真の自
由なのであり、本然の生、自然なのです。しかし社会意識とその教育
が、自我、「私」を単に強調させようとするものであるならば、私た
ちは無自覚に子どもたちの純粋さの芽を摘んでしまい、心にも世界に
も、さらに複雑さや無秩序を拡大してしまうことになるでしょう。
私たちは本当に、この生というものを知っているでしょうか? それ
知らずして、子どもたちに何を伝えようというのでしょうか?
