< 07 >


空を覆う分厚い雲から雨が落ち、存分に大気と大地を潤したかと思う
と、その次にはもう太陽の光と熱が、瞬く間にそれら乾かしてゆく。
息づくものたちは、その中で生まれ、育ち、枯れゆき、また新しくな
り‥。

そんなことを強く感じる梅雨の日の午後、ふと気配がして裏庭に目を
やると、雨の中、濡れながら通って行くタヌキが一匹‥。ここにタヌ
キが現れるのは、もうずいぶん久しくなかったことなので、少し驚き
もしましたが、雨で急いでいたのか、こちらには目もくれずに、その
まま黙ってスタスタと薮の中に消えてゆきました。それは、ほんの数
秒ほどの出来事でした。

さて前回は、個人である「私」の思考や経験というのは、ごく限定さ
れているものであるゆえに、「私」自体、そして「私」から生まれる
行動というのもまた不完全なものではないか‥ということを調べ、そ
して私たちが行為するのに、別の要素はないのだろうか‥という問い
で終わったわけですが、今回はその辺りをまた続けようと思います。

ここでの大切な問いは、人の自然な行為というのはどういうものか?
ということです。いったい何が自然で、何が不自然なのでしょうか? 
<自然>のもつ意味は、ありのままの状態のこと。それは人の意志で
も、また思考によって造り出された人工的なことでもありません。自
然とは、生における独自の秩序・調和を内包しているものでしょう。

意識をもった私たち人間は、自然から大きくかけ離れてしまったので
しょうか? 事実、自然のことをほんとうにはよくわからなくなって
いるし、すでにそれを感じにくくなっています。だから、人の自然な
行為とは何か‥というような問いも出てくるのだし、例えば、自然を
愛さなくてはならないなどと、自然を自分たちとは何か別ものとして
見るような云い方をしたりするのです。

自然の中で調和して生きるには、私たちが現実に生み出している不自
然というものについて、まずはよく知らなくてはならないわけですが、
いつも出しゃばったり引っ込んだり、意図策略しているような「私」
に対して、自然というのはそもそもの始めから、全く無関係なのでは
ないでしょうか? そのように限定的で私的な意見や、動機を伴った
行動というのは、それ自体が不自然なのでは‥?

それでは自然な振る舞い、行為のために、「私」の意見や感情を無理
矢理押し殺さなければならないのでしょうか? しかし、それこそは
不自然そのものです。そこには「私」についての理解は何もないです
し、そのような行動はただの偽善にすぎず、結局また矛盾と混乱を生
んでしまうでしょう。

ですからやはりここでも、「私」についての理解が何よりも重要にな
るのです。「私」が不自然な存在で、日々不調和を生み出しているこ
とに、どれだけほんとうに気づいているでしょうか? 「私」とは、
どのように形成され、どんな癖を持ち、どんな過去を引きずり、どん
なことを嫌がり、避けようとしているのか‥。

それは、日常の中で自分を見つめることで、実は容易に暴き出されま
す。が、同時にまた「私」というのはすぐに都合のいい言い訳、説明
もし始めるのです。これは思考の言語化という、いわば惰性的な反応
を野放しにしていると起きやすいのですが、「私」が自分自身を正当
化することにいかに長けているかということには、充分に注意し、気
づいていなくてはならないでしょう。

「私」は、思考のあるところに生まれます。なぜなら、思考によって
溜められてきた記憶・イメージの集積が「私」だからです。ではそう
すると、思考というのがこの全ての元凶なのでしょうか? しかし、
考えること自体は、私たちに備わったひとつの機能であり、思考には
思考としての役割があるのではないでしょうか?

ものごとや現象を記憶し、貯える。そして、判断、予測する。計算し、
想像し、アイデアを生む。物や道具を作り出し、使用する。言葉を通
じて、情報を交換する。技術を応用し、詳細なシステムを構築する‥。
これは他の動物にはない能力ですし、それによって人類は衣食住を確
保することができ、また常にさらなる工夫を凝らしながら、生きてき
ました。

水道や電力などの設備、人や物の移動・運搬における交通、科学技術
による産業・工業・医療の発展の他、あらゆる面での様々な問題を、
容易かつ可能にしたのです。ですから思考そのものが悪いのではなく、
要は、その用いられ方、起点となる心のあり方が問題なのです。

今は、個人の記憶力をはるかに超える人工知能、コンピュータがあり
ますが、私たちはコンピュータのような機械ではなく、自然のエネル
ギー、生を宿している自然界の生きものであり、思考だけで生きてい
るわけではありません。しかし今の私たちは、知能というものを必要
以上に重要視しているがために、個人はもちろん、社会全体が無秩序
になり、全体のバランスを崩しているのではないのでしょうか?

だからこそ、精神、心の問題をきちんと調べる必要があるのです。未
知のもの、遥か彼方の宇宙を研究するのと同じように真剣に、私たち
は自らの内面こそを見つめなくてはならないでしょう。そしてこのま
だ見いだされていない完全な調和について知ることこそが、その機能
をすでに兼ね備えている人類に課されているのだとしたら‥?

では冒頭の問いに戻りましょう。「私」のいない自然な行為、私的な
記憶からではない単純な生の行為とは、さて、どういうものでしょう? 

例えば、自分のでも、他人のでも、命の危険を感じた時にはその瞬間、
即座に為すべき行為をするでしょう? いえ、むしろ生に動かされる
と云った方が的確かもしれません。そのように私的な欲も願望もなく、
何にも固執せず、何も怖がらず、自由であること、何にも縛られるこ
となく解放されている、そんな行為はありえるでしょうか?

生においての自然な行為、それは愛なのではないでしょうか? 愛は
個人的なものではなく、全体なる調和の状態です。そしてその動きは、
私たちにとって時おり美として感じられるものです。しかしそれに出
会えないのなら、全的な知覚は、まだ眠ったままなのです。

花や草木を眺める時、森や山に、川や海に入る時、裸足で大地を駆け、
雨と風と太陽に身をさらす時、人々や、生きもの達と共に戯れる時、
私たちはおのずと自然の秩序、その美に触れるのはないでしょうか? 

さて、この夏はどんな休暇を過ごしましょうか?