近ごろは明るい時間がたっぷり。夜明けはとても早く、夕方もずいぶ
んと日が長くなりました。そして夏はもうすぐそこです。天気は移ろ
いやすいですが、雨さえ降らなければ自転車にぴったりの季節。ここ
ら辺りは、いくつかある川に沿って、平坦でわりと静かな道があちこ
ちに伸びていて、それらを伝っていくのがとても気持ちよいのです。
波立つ川面や、魚の群れ、首を水中に突っ込んで何かをついばんでい
る鴨たち、ツバメやオナガドリたちがのんびりと飛び交って戯れてい
るのを眺めながら、土手で揺れる草花の茂みと並んで走ります。歩く
よりずっと遠くまで行けるし、何より風が感じられて、ゆったり散歩
とはまた違った楽しさがあるのです。
さて、みなさんは休日や暇な時間、空いている時間がある時、どのよ
うに過ごしていますか? もし疲れていれば睡眠をとったり、身体を
休めるのでしょうが、身体に問題なく元気な時はどうですか? 特に
一人でいる時はどうでしょう? おそらく何かしらしているか、何か
したくなるか、何かしなくちゃ‥、と思ってしまうのではないでしょ
うか?
まず、一人の時間はありますか? それから何にも急かされていない、
真っ白で真っさらな空白の時間があるでしょうか? 「私」が出しゃ
ばらない、「私」のスケジュール外の、「私」の意見や空想のない時
間が‥。それとも、毎日いつも「私」のすること、したいこと、しな
くてはならない何やかんやに占められっぱなしで、そんな余白の時間
はないのでしょうか?
普段の私たちの日常を見つめると、「私」はとてつもなく強烈な存在
です。それは幼い頃から形成され、自ら仕立てあげてきた記憶の断片
からなるイメージなのですが、何よりもまずこの「私」が、自分の意
志だけで身体を操っている、行為・行動の為し手であるという考えを
持ってはいませんか?
何かに出会った時、「私」は直ちに自らの知識と経験に照らして判断
し、それから取るべき行動、またはしたいと思う行動をしている、と
‥。
そのように、普通は当然のごとく「私」が行為・行動の主人公です。
「私」には学び貯えてきた知識、いろんな経験があり、その上でいろ
いろな自分の意見や感情、信念や夢を持ちながら生きています。
行動する出発点はいつも「私」。‥それが実際見えますか? 私たち
は「私」の考え・感情というのを、何かを行う際のきっかけ、動機と
して、かなり重要視してるのではないでしょうか?
ものごとに対して、したい・したくない、すべき・すべきではない‥
と云ったり、感情を起こしたり、反応するのが「私」、なのですが、
個人の思考や経験というのは、多少いくらかの他者との共通点はあっ
ても、やはりそれはごく限定的なものなのです。
しかしここでこれを、そうか、「私」とはそういうものなのか、と単
に思い込むだけでは、まったく無意味なことでしょう。この事実を実
際に自分で見抜かなくてはなりません。この違いを知ることが、脳に
とっていくぶん難しく感じてしまうのは、私たちの脳の使い方が長年、
知識に頼りすぎる傾向、習慣に侵されてきたためでしょう。
頭脳は、「私」個人の知識・経験と、伝統・世間の風潮などといった
周囲の環境による条件のもと、固定観念でカチカチに固まってしまっ
ており、ものごとへの応答は通常、この固まり、ごく限られた部分か
らしか発せられない鈍い反応になっています。つまり、このカチカチ、
ガチガチの思考が、「私」そのものなのです。
「私」は限定され、限界がある、部分的なもの‥ということが、どう
いうことを意味するかお分かりになりますか? それはずばり不完全
だということです。「私」は完全になれずに、いつも不安定です。そ
れはご自身の内側を観察すれば、その通りであることが簡単に見て取
れるでしょう。
不完全な「私」が、‥それに気づいているか気づいていないかは別と
して、普段何をしているかというと、なるべく完璧であろうと理想に
向けて努力するか、自分の足らない部分を悟られないよう何かで防御
してごまかすか、その他さまざまな手段を使ってその事実から逃避す
るか‥ではないですか?
努力するところには「私」と「理想」間のギャップがあります。そこ
には時間的ギャップが必ず含まれており、「私」は時間をかけ、自己
満足を得るという欲望の元で、毎日毎日「私」を、そして理想と記憶
を引きずりながら、このギャップを埋める行為に膨大なエネルギーを
注ぎます。しかし、この過程で生じてくるストレスは、心身の知覚を
歪めてしまうのです。
その「私」の足元をすくわれないようするために、知識と経験の蓄積
にさらなるエネルギーが注がれます。他人と違った特殊な技術、特別
な才能、専門的な知識、多種多彩な経験‥。そのように「私」を常に
他人と比較しながら、心理的に優位な立場を求めるというのは、実は、
権力を求めているのです。他人との区別、分離、差別は一層膨らんで
‥、しかしまた「私」は、その中で起こる争い、競い合いや戦いを、
正当化しようとさえするでしょう。
ストレスを感じれば、そこから逃れるために、実にいくつもの逃避が
あります。タバコ・酒・ドラッグの他、趣味、娯楽、セックス、金銭、
宗教、そして人や物品に対する執着というのは、一時的な没我を求め
る欲望であり、それは快楽です。しかしそのような満足を一時的には
得られたとしても、それはいつしか消え去り、「私」の不安・不満は
また再び舞い戻り‥、このように、エネルギーはただ無駄に浪費され
ていくのです。
一時的なものというのは完全ではありません。が、実際、私たちの生
とは所詮それらの繰り返しではないでしょうか? 「私」の生じる所
には、どうしても完全な充足はありません。
ゆえに「私」は一人になると孤独を感じ、落ちつかなくなるのです。
たとえ誰かと一緒か、大勢の中にいたとしても「私」の沼に閉じこも
ったままでは、周りと何の交流もない上に疎遠や相違を感じ、そして
またさらに、その孤独感を深めていくのです。
完全さゆえの調和というのは、「私」の消えた時にのみ現れます。し
かし今の私たちに「私」から解放された自由な時などあるでしょうか?
たとえば、旅先や故郷で、雄大な自然の中にひとりいる時に、それを
ふと感じたことはありませんか?
その全的な調和の感覚は、自然の中でしか味わえない、というのでは
もちろんないのですが、「私」は人為的な思考そのものなので、当然、
人工物の集まっている都会のような環境では刺激が多く、思考はそれ
に対して騒がしく動きまわってしまうでしょう。
さて、冒頭の、暇な時に何をするだろうか‥という問いについてです
が、今度それを感じた時に、ぜひ自分自身で見つめてみてください。
またそれを、退屈を感じた時だけにではなく、他のさまざまな感情を
抱えている時の問いかけにもできるでしょうか? 怒っている時、悲
しい時、恐くなったり、落ちつかない時、心配だったり、淋しい時、
「私」が何かしようとしていないでしょうか?
この「私」にはほんとうに要注意なのです。なぜなら何かを意図し、
企むことに長けた不完全な「私」というのは、これらの感情を、結局
完全には消化できずに、逆に、もろもろの残骸を生んでしまうことに
なるからです。
人は「私」なしには何もできず、動けないわけではありません。ほら、
息をしているのは誰でしょう? ‥「私」ではありません。見ている
のは、聞いているのは誰でしょう? 「私」、それともただそうして
いるだけ‥?
私たちには身体を動かし行為するのに、別の要素がないでしょうか?
