光透き通るほどに初々しい緑の葉っぱたちが、流れゆく風にそわわ〜
ざわわ〜ごぅう〜と揺れています。ついこの間まで裸ん坊だった木々、
ちっちゃな芽が出たと思ったら、みるみると大きく広がって‥生の息
吹と一年のめぐりを感じます。また雑草や庭の花々も、このところの
暖かさで一斉に花開いたような感じなのですが、片隅にぽつんと咲い
ている小さくけなげな花に不意に出会ったりすると、思わず顔もほこ
ろんでしまいます。
さて、今回で5回目。そろそろ何だか、間延びしたような気分になっ
てきてはいないでしょうか? 最初はしっかりと、いろんなものごと
や自分の内面を観察していたつもりでも、だんだん徐々に情熱も薄れ、
注意もこと切れたり? もしそれが集中によるものであるなら、どの
みち長続きはしませんが‥。
毎日、目の前にはしなくてはならないことがあり、時間が費やされて
いき‥、実際、日常とは仕事、家事、育児、遊び、もろもろの心配事
に占められているわけですが、しかし *Brut には、娯楽のように日々
の生活に一時的な刺激を与えることで、元気になってもらおうという
意図は全くありません。
誰でも、楽しく気楽に毎日を過ごしていたいし、なるべく難しいこと
は考えたくない‥と思うでしょうが、その気持ちも全てひっくるめた
日々の生活そのものを見つめること、自分自身を見つめ、また周りで
起こる様々な出来事を見つめる、大いなる洞察をもつことの重要性を
何より知っていただきたいのです。
*Brut の趣旨は、この私たちの暮らしている生活が、時おり通り過ぎ
てゆくつかの間の幸せを感じる程度のものではなく、実際に、完全に、
心配や恐怖がなくなってしまう、真のくつろぎというのはありえるの
だろうか‥という、問いそのものなのです。
私たちの幸せ、心身、関係、社会における健全さ、全的で穏やかな平
和を妨げてしまっているものは何なのか、その真実と偽りを理解する
ために、共に歩み、共に調べることはできないものでしょうか?
そういうわけで、ここには幸せになるためのノウハウも、練習してほ
しいエクササイズも、記憶に留めてほしいフレーズや法則があるわけ
でもありません。書かれたことを単に抽象的に捉え、なぞることには
全く意味がないわけで、もしここで何も感じず、何も引きつけられも
しないのなら、それが事実なのですから、あえて何もしないことです。
しかし、もし自分の心の内で少しでも「?」と疑問に思い、その真理
を知りたいと思うなら、その時の関心はまさしく情熱なのであり、他
の誰かに頼ることなく、自分の力によって、これを調べ抜くことがで
きるでしょう。それに、述べられた言葉の意味を理解するというのと、
その問題の根本そのものを理解することは全くの別のことなのです。
私たちの受けた教育法のせいなのかわかりませんが、私たちは手ぶら
ですぐにあつらえ物の答えや対処法を欲しがってしまう傾向にありま
す。しかし自分で気づいていること、気づかず深く眠っているものも
含めて、非常に微妙な動きである、この精神という私たちの内面につ
いては、何をもって正しい答えだと見なすのか、それは敏感に、かつ
慎重に見極められなければなりません。
そして、実はこの日常にこそ、意味があるのです。そこには見られる
もの‥普段「私」はどんな時、どんな風に立ち振るまっているのか、
また思考はどのように動いているのかを見いだす機会があるからです。
事実今あるものと対面し、感じ、見つめ、明らかにし、理解していく
時、そこには瞬時に生まれる真の学びがあるのです。
私たちは学校を卒業すれば、もう学ぶ必要はないと思うでしょうか?
もちろん社会人になっても資格や趣味の学習はあるでしょうが、生き
る上での学び‥それはまた仕事であるともいえますが‥とは私たちの
内面についてを自ら知ることです。それは生計を立てるために仕事す
るのと等しく、もしくはそれ以上に大切なことなのです。
文明の進化があり、科学技術や、情報ネットワークは非常に発達しま
したが、それをどのように扱うのかという点では、私たちの心理状態
はいまだ未熟なままではないでしょうか? しかし、そのことを認め
たくはないのでしょう、どういうわけかこの精神の問題は真に探究さ
れることなく、全く不思議なほどに見過ごされています。
個人の、世界の、経済的、政治的、環境的な問題があふれている今、
それらを解決し、世の中を変えるためには、まずは政治家や専門学者、
研究者や宗教者などにならなくてはならないのでしょうか? または
その人たちに仕事を任せっぱなしで、何かしてくれることをただ待っ
ている、そして思ったように事が為されなければ、不平・不満を並べ
たてればいいのでしょうか?
いえ、私たちは何よりもまず真剣に自分の心、心理というものを調べ
てみなければなりません。世界が無秩序で混沌としているのは、私た
ち一人ひとりの内面の葛藤や矛盾、恐れや怠惰がそのまま現れている
のです。ですから私たちは人間として、精神的には成熟できていない
といえるのです。
内面には今まで培ってきた考え、知識、習慣などの重みがあり、また
社会の風潮、意識、伝統、環境に多大に影響されています。それゆえ
私たちは何かを真っ向から見ることのエネルギーに乏しく、その欠如
感からすぐに疲れや面倒臭さというものを感じてしまいます。
もし自分で、自分自身の心にきちんと取り組むことがなければ、人生、
表向きには浮かんだり沈んだりする多少の変化はあるかもしれません
が、根本的には何も変わらず未熟なままであり、人間としての英知や
愛は今後も閉じたままでしょう。
では根本的に変わるとはどういうことでしょうか? それは狭い視野
でものごとを見ようとする自己中心的な「私」が理解され、解消され
ることであり、有機的に全的な秩序を生み出すことを意味しています。
それはこの世界で、葛藤も恐怖もなく、穏やかに、思いやりをもって、
正しい関係を築き、協力し、かつ自由に暮らしていくことなのです。
‥と、それを聞いてどうでしょうか? 何だかとても難しそうだし、
きっと無理だろうと云い、実行不可能なものとして判断してしまいま
せんか? 実現できればすばらしいことかもしれないけど、私はそこ
にはたどり着けるのだろうか、などと思ったり‥。
もしそうなら、思い、判断しているのはいったい誰なのでしょう?
それは頭の中の「私」、目の前の問題から巧妙に逃れようとする思考
ではないでしょうか? そもそも「私」というのは時間を経て、経験
の蓄積過程で生まれたものですから、「私」が何かに変わるためには、
当然また、それなりの時間がかかるのだろう‥と思ってしまうのです。
まるで、とんでもなくややこしいものが、白昼堂々と闊歩しているか
のようです。しかしこの複雑な精神‥心の動き、考え、感情というも
のというのは、世間でよく云われているように、知識や経験によって
養われたり、また時間によって成長するものでも、自己意志によって
コントロールすべきものでも、決してありません。
何かをしようと企て、動きまわり、常にものごとの為し手であろうと
する「私」‥、しかし澱んだ沼に沈んでいるままでは、大したことは
何もできないのです。大切なのはこの瞬間にとどまり見つめること。
深刻にではなく、ただ目覚めて真剣に‥。
実際、英知や愛に、時間はまったく無関係なのではないでしょうか?
