さくらの彩り美しい春になりました。ここ最近は、暇な時間を見つけ
ては庭へ出て、天然自生で勢いあまってきた芝の整理をしています。
前屈みの姿勢が続くので腰が痛くならないようにとか、土で手が荒れ
ないようにとか、気づかうこともありますが、それでもやはり、外で
鳥の声を聞きながら、風に吹かれながら、花びらがひらひらと舞い落
ちてくる中、まだ少しヒンヤリしたりする地面にペタンと座って土を
触っているのは、何て心地よいのだろう‥と思うのです。
さて、前回は見ること、観察において、知覚を遮る思考の存在と、そ
の習慣性についてを取り上げ、調べました。その後も日々見つめ、瞬
々刻々と気づき、目覚めていますか? それとも頭の中は、まだまだ
いろんな雑音で覆われてしまっているでしょうか?
もし、雑音がある‥ということに気づき始めたのなら、まずはそれで
充分です。気づき、注意深く見守っていれば、あちらこちらに泳ぎ、
枝分かれし、くり返している思考の存在に、さらにいつも気づけるよ
うになるでしょう。大切なのは、思考のだらだらとした流れに乗って
しまわないようにすること、惰性で動く思考の習慣を止めることです。
何かが思い浮かんだら、その思考の内容をじっと見つめてみましょう。
さてそれは、今とても気がかりなことなのでしょうか? もしそうな
ら、今すぐきちんと向き合い、考え抜いて、それを終了してしまいま
しょう。
もし、何がなんだかよくわからないほど思考が入り乱れているのなら、
それらを明らかにするために、浮かんでくることを紙にどんどんと書
き出してみましょう。文章化して表現し、実際に目に見える形にして
みることは、同時に自分の思考の内容を観察し、整理し、秩序立てて
いく作業として役立つでしょう。
何か忘れたくないことがあって、何度も反芻・反復してしまう場合も、
それを一度外に出し、書き留めておきましょう。見たくなった時には
いつでもそれを見返せばよいのです。そうすれば、今はその思考から
解放されることができます。
また、考えてみても今すぐは解決できなかったり、ただ何となく思い
出しただけのことなら、今それをだらだら続けることは、エネルギー
を浪費してしまっているのだという事実を、しっかり認識しなくては
なりません。
わたしたちは思考することで、脳に多大なエネルギーを注いでいます。
しかし思考だけに重点を置くと、感受性は鈍ります。ものごとを見極
めることのできる感受性、英知が目覚めるには、一点の摩擦もない全
的なエネルギーが必要です。全的な状態でもし思考が働くのなら、そ
の時は、思考が健全に用いられているということです。
しかし、エネルギーが心身の一部に集中していたり、あちこちに分断
していたり、何かの支障でブロックしていたり、必要以上に浪費して
いたりすると、本来の働きは発揮されず、不完全なものになってしま
います。
それからまた、自分を見つめ、観察していると、ふと気がつくことが
あるでしょう。全的にきちんと目覚めている時、良くも悪くも、今あ
りのままの<事実>がはっきりと見えているのに、油断すると、間髪
入れずに、もしくはちょっと間を置いただけで、自分の中で何か動き
が生じたりするということに‥。
今の状況、現実に対して、正しいとか間違っているとか、好きだとか
嫌いだとか、否定したい、納得できないとか、ずっと守リ続けたい、
このまま浸っていたいとか、困った、どうしたらいいのだろう、どう
にかしなくては‥などという反応や、気持ちが生まれてくるのです。
そしてそれは実際、日常茶飯事でしょう!
ではこの時、実際には何が反応しているのでしょう? 見つめれば、
それは明らかに「私」の登場であることがわかります。今、目の前で
あらわになった事実の認識は、知覚から「私」に飛び移り、それに対
して思うことや感情が言語化され、そのまま私の意見として喋ったり、
人前で主張したりするのです。
今回は、この「私」をもっと深くまで掘り下げてみましょう。日々の
生活の中で起きる様々なものごとに対し、「私」というのは心理的に、
その事実を受け入れたり、受け入れなかったり、分析したり、判断し
たり、克服を試みたり、その他いろいろなことをしたくなるようです。
しかしその「私」を動かしている根本というのは何なのでしょうか?
「私」はいったい何を基準に、順応、拒否、回避、対決、取組み‥な
どの様々な行動をとるのでしょうか?
好み? 今までに得た経験? 知識? 伝統? 習慣? 欲? それ
とも無意識? 何でしょう? もちろん、答えをこの中から一つ当て
てほしいというのではありません。けれど「私」の日常をよく見つめ
ていると、全ての裏には私の心、また性格にも影響している、大きな
パターンが隠れているということに気づいてくるでしょう。
‥少し見えてきましたか? まずこの「私」とは、過去と記憶の蓄積
から生じているのではないでしょうか? またそれらを常にあれこれ
と言語化しています。つまり、経験を元手にしない限り存在できない
「私」というのは、過去そのものなのです。
ですから「私」の行動の基準は、過去。実際、どの瞬間にもすばやく
登場しますが、それは過去からの目線によって、今現在の事実を捉え
ようとしているのです。
物質面、技術面における過去の経験と知識の蓄積が、私たちの現在の
生活に、重要な役割を果たしてくれていることは明らかなのですが、
さて、「私」個人としての心理・精神面での感情の蓄積は、何かに役
立つことがあるのでしょうか?
誰かとの、類似的体験による共感でしょうか? しかしその共感とい
うのが、ノスタルジックなものだったり、自己憐憫的な「私」中心の
ものにすぎないのなら、英知をもってすれば、そこに浸ろうとする愚
かさを見抜き、ことごとく一掃してしまうでしょう。
「私」にこだわればこだわるほど、過去という古く、閉ざされた私的
世界をずるずるとひきずり、持ち運んでいることになります。それは
まるで、沼に足を取られ、沈んでいるようなものです。もちろんその
中では英知は働けませんし、生自体の動きも限定的で、不完全なもの
であるでしょう。
では、実際にご自身の「私」を見てみて、いかがですか?
