さわやかに晴れ渡り、どんよりと陰り、しくしくと冷たい雨が降って、
風が吹きさび、雪が舞う‥。春への移行期の今は、空模様もいろいろ
とお忙しいようで、複雑ですが、私たちの心身もまた同様に、冬の間
に浅くも深くも溜めこんだ、何やかんや全てを放り出し、新しい春、
新鮮で、ピュアな芽を出し、花を咲かせることができますように‥。
さて前回お話した、<見る>こと‥。どうでしょう、実際に見つめて
みると、今までは、さほど気を払ってこなかったけれども、私たちの
生活の大部分が、とてつもなく活動的で、説明し、判断し、選び、舵
取りしようとする思考によって行われているということ。それは、い
つもせわしなく動いていて、澄んだ知覚の瞬間をも、あっという間に
覆い隠してしまうことにお気づきになったのではないでしょうか?
ちゃんと気をつけているつもりでも、知覚はすぐに遮られ、やはりど
うしても思考と一緒にものごとを見て、すぐさま私的な反応、行動、
態度を取ってしまっている‥というのが現状でしょう。知覚し、敏感
に何かを感じることはおろか、ありのままを淡々と見、聞きするとい
う単純な行為でさえ、とても難しいと感じるのではないでしょうか?
ではなぜ、私たちはそれほどまでに思考というものを重視し、駆使し、
そして頼ってきたのでしょう? 同時に、思考の使い手、判断と行動
の為し手としての「私」を維持し続け、また、より一層成長させよう
とするのは一体何なのか? ‥そう問いたくはなりませんか?
これまでの人生では、思考や「私」という存在について、疑問を持つ
ということなど、全く思いも寄らずに過ごして来たことでしょう。が、
もし今、漠然とでも、それが自分の知覚を妨げていて、ものごとを自
由に、単純に、明確に見ることのできない原因なのかもしれない‥と
感じるなら、きちんと掘り下げてみましょう。
といっても、それは「私」が抱えている特定の問題、悩み、考え方を
断片的に取りあげて、細々と分析していくことなのではありません。
それよりも大事なのは、思考というものがどのように形成されており、
日常でどのような動きをしているのかを、全体的に注意深く観察し、
理解することなのです。
日常のいろんな時、いろんな場面で動きまわっている思考‥。それで
はまず、私たちの頭の中には、すぐに言葉を放ち、おしゃべりし始め
るといった、自動的なパターン‥というものがすでに存在しているこ
とに実際、お気づきになるでしょうか?
パターン。つまり、それは習慣のようなものですが、それは、作業工
程をプログラミングされた機械のように、意識せず、無自覚に何かを
行うということです。癖、これもまたまさしく習慣のことですが、で
はまず先に、この習慣・癖・パターンというものが一体どういう過程
で仕組まれ、生まれてくるのかを見てみましょう。
行動する中に、まず最初の体験があります。そしてその時、何かを感
じます。もしそれが精神的に心地よく、安全で確実だ、と感じたのな
ら、それを記憶し、その後、再び自分からそれを求めたり行うことが
あります。
もしその体験が不快だったり、困難だったり、不安だったとしても、
達成や理想といった何かを目指すことで、自分でまたその行為に挑戦
したり、もしくは他の誰かに強要させられることによって、再び行う
こともあるでしょう。
同じことを繰り返し、繰り返しすることで、その行為には慣れが生じ
てくるのですが、しかし最初に感じたものは次第に薄れ、知覚自体が
鈍くなり、後にはこの繰り返すという行為だけが残り、根付くのです。
私たちにはいろんな日々の習慣があるでしょう。それらを、これは良
い習慣、あれは悪い‥と決めつけるのではなく、習慣、そのものにつ
いてを、ここで今一度、見つめてみましょう。
習慣化した行為においては、感じるということ、知覚は、すっかり姿
を消してしまってはいないでしょうか? この習慣というのは、結局
どれもが機械的になることであり、そこに、新鮮な輝きはもう存在し
ないこと、そして、鈍感さをさらに増幅していってることに気づける
でしょうか?
となると、日常何気に頭の中で動きまわっている思考というのもまた、
習慣そのものではないでしょうか? 何かに反応して、瞬時、ためら
いなくそれは作動し始めるのですが、実はその必要がない場合がほと
んどかもしれないとしたら‥?
では、それも観察し、調べてみましょう。思考が動く瞬間、できれば
その最初の起点に留まれればいいのですが、もしすでに思考が次から
次へと沸き動いてしまっても、それを止めようとも、さらに盛り上げ
ようともせずに、ただ静かに、その内容を注意して見てみることはで
きるでしょうか? ここでも、これは良い思考、悪い思考と区別する
のではなく、何の判断もなしに見てみるのです。
すると、だんだんと見えてくるのは、思考しているがゆえに存在して
いる自分という確固としたもの、意見や感想を持っている、他者から
は切り離され、分たれた「私」がいる、ということではないですか?
では、この「私」は、何をしているのでしょう? ‥「私」は過去に
経験した記憶、持っている知識や言葉を並べたり、混ぜたり合わせた
りしているだけではないでしょうか? 過去を元手とした思考の殻に
閉ざされているのです。そこに、新鮮な知覚はないでしょう。
けれども、殻の中にいる、ということの事実に、直接触れ、気づいた
なら、さて、たった今起こっていた思考の内容は一体どうなりますか?
‥思考は動きを止め、内容は一瞬に消えてしまいはしないでしょうか?
その瞬間、頭の中は静かに沈黙します。「私」として、周りとの分断
をおこし、こだわりの境界となっていた殻は消え、そのおかげで周囲
の見えるもの、聞こえるもの、触れるものに新鮮に気づくようになる
のではないでしょうか? 眠っていた知覚が目覚め、敏感で豊かな感
受性が動き出す。これが、<見る>ことから生まれるアートなのです。
けれど、もし疲れきっていたり、病気や、ケガでひどい痛みがあるな
ど、体力が消耗していたり、また日常の習慣化した行動のために、エ
ネルギーが無駄に浪費されている場合などは、見ることは困難を極め
ます。なぜならそれは “生” の全的なエネルギーによって為されること
だからです。
しっかりと目覚め、ものごとの全体を見抜く。この洞察によってこそ
ほんとうの英知が生まれます。そのような英知から起こる動き、行為
には、聡明な真の正しさがあるでしょう。
知識は、人間が経験し、貯えてきた様々な記憶の結集ではあるものの、
その知識、またそれを使うための思考というのは、あくまで “生” を
支えている一機能、パーツにすぎません。自然界の全てを人間の知識
だけで把握しきれないように、思考は、全を成すものではないのです。
かといって、ただ思考を無理矢理拒絶してしまうというのでは、単に
感受性を殺すことになってしまいます。そこで私たちは、今後もこの
思考というものについて、さらなる理解を深めていかなければなりま
せん。
日々の生活の中で、 “生” からのさまざまな問いかけに、実際私たち
はどのように応じているのか、それを感得することはできるでしょう
か?
