歩いていると、紅や白の可憐で小さな梅の花たちが咲いているのを見
かけるようになりました。うちの周りを行き交う鳥たちの声も、それ
となく、ほがらかに歌うような感じに変わってきました。
ぴーぴこぴこぴ♪ ちぃーちちっちっ♪ ちゅぱちゅぴぃー♪ ほう
ーほぅっほっほー♪ ‥山バトさんでしょうか? とにかく、 “生”
の歌声は、聴いた瞬間、胸に直接入りこんでくるようです。
では *Brut の2回目です。前回お話した、精神の調和を求めて「私」
プラグを抜くことについてを続けてうんぬんするよりも、この私たち
の暮らしている現実の世界というものを、もう少しじっくり見てみる
ことにしてみましょう。
私たちの周りには、測り知れないほどの大きな空間、宇宙があり、そ
こに地球があります。そしてその自然環境の中に、人間たちがつくり
あげている社会があり、その社会の中に私はいます。そうですよね?
ここで生活するために、私は働き、関わり、関係を築かなければなら
ないわけですが、そのおかげでまたいろんな恩恵も受けることができ
ているのです。命ある、存在する全てのものは、自然の中でも、社会
の中でも、その環境の中、お互いに関わりあうことによって生きられ
る。これが “生” の仕組みではないでしょうか?
しかし現実には、自然、環境、社会、人間同士‥、どの関わりあいに
おいても、たくさんの歪みと問題が生じています。それは私たちが、
根本的な “生” の意味を見失ってしまっているということではないで
しょうか?
“生” とは何で、生きるとはどういうことなのか? 私たちはそんな
疑問が浮き沈みする中に、暮らしているのではないでしょうか?
人間たちが長い年月をかけて歩み、手がけてきたこの社会には、いつ
の時代にも、終わることのない悲しみ、不安、恐怖、苦痛があり、ま
た権力、競争、暴力、戦争、分断が続いてきました。そして、それは
今でも全く同じです。この現実をありのまま、ねじ曲げることも飾る
ことなく見れているでしょうか?
社会とは、私たち一人ひとりが集まることで現れます。他人ごととし
てではなく、今ここにいる私自身も、日々、痛みや悲しみ、寂しさや
怒り、虚しさを、止めどなく織り続けている人間の一人なのだという
ことを、事実としてきちんと見れているでしょうか?
見れているかと何度もお尋ねするのは、それを認識することが、何よ
りも重要だからです。もし認識できないのであれば、これから行って
いくこの取り組みもちょっとした暇つぶしか、気まぐれ程度の、中途
半端で意味のないものになってしまうでしょう。
ここでの<見る>というのは、目で認識する、もしくは心ではっきり
感じとる、ということですが、普段の私たちは、見る時も、聞く時も、
脳で思考を絡ませながら行っています。それにお気づきになったこと
はありますか? それは私たちの脳内での根強い習慣で、もはや無意
識的、自動的に行うようになってしまっているのです。
花を見ます。山を見ます。空を見ます。生きものが動くのを見ます。
動いている機械を見ます。誰かの顔を見ます。人が話したり、動作し
ているのを見ます。自分が何かしているのを見ます。自分がしゃべっ
ているのを見ます。自分が、感情的になっているのを見ます。
このように、ありとあらゆる<見る>ことがありますが、その瞬間、
どうもそこだけに留まってはいられないようなのです。何かに接する
とすぐに、名称、色、形、印象、感情、理由、言い訳、思い出、計画、
想像‥というように、知識と記憶をたぐりながらのおしゃべりが始ま
ってしまいます。
では日常の中で思考を通さずに、つまり何の言葉も、考えもなしに、
ただ瞬々刻々何かを見つめ、感じることはありますか? 思考が消え
た時にこそ、澄んだ知覚というものが現れます。この知覚というのも
また、認識し、感じるということですが、感じ取るのは「私」なので
はありません。「私」とは無関係、純粋な “生” による感覚です。
心身の状態が不安定だったり、不調だと感じる時は特に、人との関わ
りで辛いこと、嫌なこと、面倒なことからは、できれば目を逸らし、
避けていたいと思うことでしょう。けれどもそれらをすぐに自分の好
き嫌い、良い悪い、正しい間違っているという判断で終わらせてしま
わずに、そこに留まり、ありのままの「私」と、この現実世界をただ
いつも注意して見つめてみてください。
きちんと見つめないと、知覚というのはどんどんと衰え、鈍く、鈍感
になってしまいます。そして、その場で理解されないあらゆる問題は、
次から次へと無秩序に、思考にまみれながら、身体や意識の中に溜め
こまれてゆくのです。
生きる中で、疑問や悩みというのは、常に私たちの心の中に生まれて
くるものですが、それをうやむやにごまかさず、きちんと向き合い、
見つめることで、理解はおのずと生まれてくるのではないでしょうか?
そしてまさにそれが、誰に頼るのでもなく、時間もコントロールも必
要としない、気づきなのであり、”生” そのものの<英知>というもの
でしょう。
ところで、ここで話しているのは、いわゆる自己分析や、自己実現、
自己鍛錬のようなものとは全く違います。むしろこれは、生きること
のアートとでも呼ばれうるものでしょう。いつでもどこでも何をして
いても<見る>こと、つまりそれは、日々の行為だからです。
私たち人間の英知はいまだ閉じたままで、咲いてはいません。それが
豊かに花開き、純粋な香りと輝きを放つには、ものごとの関連性と、
その全体性を、明晰に感じとることのできる感受性が必要です。
生きるとはどういうことなのか‥? そのような感受性が備わると、
その答えは自然に現れてくるでしょう。
さぁ、たゆみない視線で‥。
