ここまで共に進めてきた全てを透徹に、クリアに見渡せているでしょ
うか? そうであれば、あなたの人生に対する視線そのものが、おそ
らくガラっと変わっていることでしょう。
今までのように、自分に欠けた何かを探して、辺りをうろつきまわっ
たり、誰かに頼って埋めようとすることもなく、いつの間にか生まれ
て、あとは流されて、生きることの意味も解らないまま死にゆき、何
がしかのものを自分の子孫に残すか、または全く誰にも、何の欠片も
残さずに一生を終える‥といったことはなくなるでしょう。
愛は生き、動きつづけるエネルギーそのものであるからこそ、絶える
ものではないことを、私たちが真に実感していれば、肉体的に終わる
死を悲観したり、恐れたりすることはないでしょう。なぜなら「私」
がいなければ、そこには固執したり、ひきずる問題はほんとうに何も
ないのです。
自分をありのままに理解することによって、心から楽しみ、探究し、
関わっていける仕事や能力を、あなたは自分自身で見い出してゆくで
しょう。なぜならそれが、あなたの生そのものであるからです。好き
なことや仕事に携わるというのは、心身に無理な負担や葛藤もなく、
自発的なエネルギーがあるのでさほど疲れも感じないでしょうが、ま
た等しく、ほんとうの休息の大切さについても自然とわかるはずです。
今ここにある愛の質を育み、それを人々と分かち合いながら、情熱を
持って、自分の仕事を正しく行いつつ、現在を全うすることでしょう。
すでにあなたの関心は、自己的な生活、生存をまかなうことだけにと
どまらない、人々や自然との調和ある関係であり、それは真の正しさ
に沿うものではないでしょうか?
自個性の強調の結果が、今のこの混乱した無秩序でアンバランスな社
会です。もう、それは充分おわかりでしょう。そうではなく、一人ひ
とりの能力を生かしながら、そして互いに補いながら、この世界全体
の風潮、流れを転換させ、ハーモニーをもたらすことはできるでしょ
うか?
それでは、社会における家族とはどういうものなのでしょうか? そ
れは愛なのでしょうか? 結婚に限らず制度が形式に過ぎないのなら
ば、家族制度というのも同じではないでしょうか? 名前や血縁関係
に基づく家柄の伝統や存続性、所属性は、一体どれだけ重要でしょう
か?
私たちは制度などに縛られず、形にこだわることなく、愛のもとにお
互いを本当に思いやり、慈しみながら、真の意味で、共に暮らしてい
くことが可能ではないでしょうか? 家族でないと、血のつながりが
ないと、愛は生まれないのでしょうか? 他国の民族には、愛を感じ
られないのでしょうか? 愛は人を選ぶのでしょうか?
そうではないことは明らかでしょう? 愛や自然は、何も故意に選ん
だりはしません。人間の不自然な心が、愛そして自然を無視し、形骸
化し、拒絶し、破壊しているのです。
もしもこれらのことを一人ひとりが真から理解すれば、わざわざ誓う
ことも、どこかに属したり、依存することもなく、自由の中で助けあ
い、共に働き、一緒に生を歩みゆくことができるのではありませんか?
世帯、家族の集まりから村、町、市、県という地方を経て、現在、そ
のシステムの集合体の大元は、国家や地域連邦であり、それぞれの政
治が行われています。元来、それは共生共同と徴税制度のために存在
するものですが、なぜまたここで止まってしまい、地球全体の規模へ
と広がろうとはしないのでしょうか?
私たちは人類というひとつの家族であり、しかしまた自然の中のほん
の一部の存在です。地球規模であっても、共同体の運営はまさに全て
の自然と共生することほかなりません。
環境が同じではないからこそ、各地域における協力、物資、知恵、技
術なども、当然それぞれに見合ったものが必要でしょう。ではそれら
を滞りなく行き渡らせるためには、どうしたらよいでしょうか? 規
模が大きすぎるからといって混乱が起きるでしょうか?
そこにこそ、今、世界中にあるネットワーク技術を使えば、それを明
晰かつトータルに見つめ、現状を把握することはできるのではないの
でしょうか?
しかし、集まってくるお金や情報、物資、技術、エネルギーを正しく
使うことのできる英知や愛が、何よりも大切です。ずいぶん長い間、
それが誤用や限定、独占されていて、真に生かされていないことを私
たちは感じられるでしょうか?
今のこの権力的で威圧的、また同時に他力的で無秩序な世界は、自己、
私欲をふりかざす個人と、そのような個人の集まりで構成されている
組織、団体、地域、国家、もしくは家族によってまかなわれている結
果であり、愛のなさゆえのものなのです。
しかし愛が基準であれば、人間はただその真理のもとに、責任、犠牲、
矛盾、偽善、強制、奉仕といった形容もなく、ただただ実在において
正しい行為をするでしょう。何かの主義方策や、権利、理想を掲げな
がら、先にどこかの一部分を柵で取り囲んでしまうような選別の必要
なども全くないのです。
愛の理解において、そこから溢れる自然なエネルギーから為されるこ
とには、歪みや摩擦が起きることはありません。無駄がなく、しなや
かで、還元的、循環的性質のあるものこそが、調和の動き、愛の流れ
なのです。
では、伝統的な信仰や、宗教というものはどうでしょうか? こうな
るともうそのナンセンスも見えているはずです。人々は宗教に興味を
持っていてもいなくても、伝統儀式を受け入れ、それを曖昧に続けて
いますし、新興的なものもあります。真に宗教的であることの意味を
見い出そうともせずに、何かを乞い、願い、悔い、謝り、誓い、死ぬ
時にだけ、各々の神、または様式やしきたりに、習慣と惰性、思い込
みで従うのです。
それらのものがこれまで私たちに、何をもたらしたでしょうか? 結
局のところ、僧侶や司祭などという人たちも自分をよく知らぬまま、
人々に何かを施しているつもりで職業的任務をうやうやしく執り行い、
鈍感にその地位に甘んじているのではないでしょうか?
なぜなら本当に愛や真理を探す人なら、そのような所属性で成り立っ
ている宗教団体や組織の本性、慰めを求めたり、すがらせる信心を持
たせ、祈らせることで、人々の恐れや心配、悩みを舐め、食いつぶし
ていること、またそれが地球上の争いや分裂の大きな原因であること
に、気づかないわけがありません。
これは民族、国家において主導政権にこだわり、争っている政党や派
閥、またそこに暗に身を委ねる個人についても、全く同じことが云え
ます。
何かを信じること、委ねること、隔てること、企てること、真似るこ
とは、愛ではありません。それは自我ゆえに起こる、真実からの逃避
なのです。また神というのも言葉に過ぎません。だいたい儀式や彫像
や物品など、思考の生みだした人工的なものに神がいるでしょうか?
もしかつて神だと表現されたものが、美の、愛の、慈悲の、自発的な
創造性、活力、エネルギーだとしたら、それは生命溢れ、息づいてい
る、自然そのもののことであり、それはいたる所にあるのではないで
しょうか?
そして、もし人の手で作られた物に美の輝きがあるとしたら、それは
それを手がけた人が、無我の境地に自然に沸きあがる情熱と愛によっ
て創りあげたからでしょう。しかし私たちはただそれを眺めているだ
けでは、その人の境地を完全に知り、感じることはできないのです。
美や神や愛は、わざわざどこかに行ったり、何かを崇め、拝んだり、
代用品を集めたり、儀式にほうけたりしなくても、覚めて現在の全き
沈黙、静寂の空間に留まることで、感じられるのではないでしょうか?
