ではここからは、日常的に私の内に起こる思考や感情といった心の根
本を調べられるでしょうか?
私たちは、根本と云われてもつい漠然と、きっかけや経緯、その原因
理由‥と幅広く捉えてしまうかもしれませんが、一結果について、そ
れにまつわる過去の原因を挙げていけば、それはそれは山ほどたくさ
んあるでしょう。そしてそれをまたひとつひとつ細かく分析してゆく
としたら、記憶をたどり、時代を遡り‥と相当の時間がかかってしま
います。
しかしそもそも原因というのは、そのような方法で調べ尽くせるので
しょうか? それは、宇宙の果てまで広がっていってしまいはしない
でしょうか? そうなると今の科学をもってもその全てを知ることは
不可能で、いずれ行き詰まってしまうことになります。それともそれ
を神秘という言葉で片付けてしまいますか?
いえ、やはりここでは外側にではなく、内に探りをいれてみましょう。
私たちは今現在における「私」、自己についてを調べていたのですか
ら、その根源の中心主軸となっている、『考えたり感じる「私」とは、
いったい誰で、何者なのか‥?』という問いに戻ることにしましょう。
自分についてを眺めてみると、「これが私」と普段思っているのは、
肉体についての情報、名前や容姿であり、また、過ぎ去った出来事や
感情の記憶からなる想い出、そしてその全ての時間的経過、年齢的な、
歴史の総合といったものではないでしょうか?
実際、経過した時間の中での「私」としての体験というものは、断片
的ではありますが確かに記憶にあります。が、今現時点でこの「私」
は、それらの個人的な細かなデータからまとめあげられた、ざっくり
とした概念的なものではないでしょうか?
しかも「私」について何かを思ってみたり、「私」を「私」として認
めているのも、やっぱりまた同じ「私」によってではありませんか?
‥何だかややこしくなってきましたが、ここは充分気をつけて、見て
みることにしましょう。
そのデータとは、まるで脳みそにこびりついている、鱗のようなもの
です。想い出はびっしりと並び、小さくて半透明、固く、光の反射に
よって、色を変えたり、きらめくのです。その鱗片ひとつひとつが、
自分自身についてのいろんな情報、過去の記憶、経験を持っていて、
それらたくさんの重なりによって「私」がいる‥と思っているのです。
思うことはできますが、しかし当然、今ここに実際、そのような鱗群
があるわけではありません。「私」も「鱗」も、単に言葉が違うだけ
で、どちらも思考によって作られたものではないでしょうか? です
からそれは本当には実在しない幻想、イメージ、脳内の運動なのです。
では今ここで、見たり、聞いたり、気づいているのは誰でしょう?
また新しい別の鱗群が、頭の中に現われたのでしょうか?
もし今またここであれこれと描写したり、おしゃべりしている者がい
るのなら、それはやっぱりただの思考が動き回っているに過ぎません。
「私」だと思っている思考、自我のイメージを通してこれを眺めてい
るのです。しかしくり返しますが、そのイメージ自体に実在性はあり
ません。
それとも今、新しい鱗もその古き群集もなく、瞬々刻々と気づいてい
る感覚、知覚だけがあるのでしょうか?
思考が止み、脳が静まり、心がざわつきもしない時、現在の只中にい
る瞬間‥それはつまり瞑想の状態ということですが‥その時、周りへ
の知覚はありますが、そこに主張する私、自己、自我といったものは
なく、誰もいません。
もはや「私」は溶けており、私が経てきた記憶、そして過去や未来と
いった時間、言葉も消えています。‥そうではないでしょうか?
呼吸し、心臓が動き、血液が流れる自律的な動きのある肉体‥つまり
生命と、あとは知覚しかありません。気づいてはいますが、気づいて
いる者は私だという主張はないですし、またできません。ただ、気づ
きのみです。
ではどうでしょう、たった今、心配や恐怖があるでしょうか? 怒り
や悲しみ、痛みや絶望、淋しさや憎しみ、嫉妬や執着、またいわゆる
嬉しさ、楽しさ、希望、欲望といった感情のもろもろは、「私」が消
えた時、存在するのでしょうか?
思考や感情による悩みや問題は、すべて自我から生まれ出ずるものな
のです。「私」がいる時、それらは生まれます。「私」がいるのであ
れば、必ず誰かや何かとの分離があり、「私」がいなければ、あるの
は生という真の実在のみ。瞬時の気づき、理解であり、そして全的な
解放、自由の実感です。
この、まるでカラクリのような構造を、しっかり見通せているでしょ
うか?
これは非常な注意深さでもって、一人ひとりの内で見い出さなければ
ならないことです。そのためには、すべての思考と感情を自然に起こ
らせながらも、あなたはそれが起こる根源を見つめ、探ってゆく、覚
めた視線をいつも注いでいなくてはなりません。その発見を思考自体
に頼ることはもうできなくなったのです。
もしほんとうにこれを見通し、実感しているのであれば、もう何にも
縛られてはいません。けれどもそれは無感覚や、無気力、怠惰になる
のでも、人々と疎遠になるわけでもありません。それは知覚そのもの
が、たゆみない鋭敏な感受性をもっているからです。
そのように自由で、真からくつろぎ、明晰さのあるところでは、今の
現状への心からの気づき、何がほんとうに必要で、何が欠けていて、
何が無駄なのかが、閃くように浮かんできます。思考のじゃまがない
ために、ありのままの実状を私的にではなく、全的、俯瞰的に眺める
ことができるのです。
ですから、ほんとうに必要な何かを行うためのエネルギーというのは、
意図的にではなく、自然と新たに湧き出てくるものです。肉体を通し
て動き表われる自発的な感覚そのものが、自然な美、活力であり、ま
た愛でもあるのではないでしょうか?
例えば、純粋に好きな何かに打ち込んだり、鑑賞したりしている時、
また何もせずにただ静かにいる時や、何のイメージも加えることなく
誰かを応援したり、助ける時、目の前の事象と一体となって深く感動
している時、そこに「私」はいないはずです。
「私」が消えると、そこには愛と呼ばれる調和のエネルギーがあるの
です。
そうすると、自由、美、愛、エネルギー、自発性、創造性というのは、
全て同じものの要素であり、そのうちのどれかを言い表わすのに、何
ものも欠けることができないのではないでしょうか? それはつまり、
真理というものの要素、なのでしょうか‥?
私たちはすでに相当に長い間、人間本来の自然な有機的機能を、思考
によって閉塞させており、こむずかしく、頭でっかちで、けれども鈍
感で、そのことに気づくこともできなくなってしまっている‥? こ
れこそ、大変な問題ではないでしょうか?
私たちが、この自我として脳にこびりついている鱗の存在に気づき、
それを理解しない限り、愛や真理は私たちにはいつまでたっても遠い
存在で、ふと思い出すかのようなほんの時々にしか、出会えないもの
となっているのです。
現代、私たちは知識力の向上と、利便性を優先した社会をつくりあげ、
発展、開発、競争、自個性を促しつづけながらも、それに囚われすぎ
たことで、もともと人間に備わっているはずの英知や感受性という大
切なものを、随分と忘れてしまったようです。
自らが作成したトリックにはまり、あげくの果てにがんじがらめとな
って、そこから抜け出せずにいるのです。その事実を見抜き、どんで
ん返しともいえるほど意識がそっくり転換されなければ、地球全体は
おろか、身近な関係にさえも、愛や平和、自由が訪れることはないで
しょう。
その平和や自由を、私たちはどれだけほんとうに知っているでしょう
か? 同じ人間なのに、私たちは互いに何をそんなにも恐れるのでし
ょう? なぜそれほどまでに自分の意見や、信念や、持ち物に固執す
るのでしょう? 何が私たちをこんなにも欲張りにさせるのでしょう?
なぜいつまでも私たちは鈍感のままでいることに甘んじているのでし
ょう?
それは全て、私利私欲にほかなりません。「私」がいるからです。こ
の世界は主張する「私」だらけで、皆それぞれが思考による柱と、鱗
の壁で飾りたてたエゴ・カゴの中から、自分や外を見ているのです。
そしてまた私ひとりだけが、自分の家族だけが、自分の国だけが幸せ
で、はたして意味はあるのでしょうか? 実は自分のこともよく知ら
ず、解らないままなのに、それを差し置いて他の人々のためにいった
い何ができるというのでしょう?
私たちひとりひとりの欲望、快楽、怠惰、恐怖、逃避、暴力、無知が、
国境や民族にこだわり分断している国家に依存させ、防衛の為に軍備
を強化し、戦争で人々を殺傷し、法律で人を裁き、罰し、技術や経済
の格差と、飢餓や貧困を放置し、自然環境を破壊し、資源を枯渇させ、
テロや汚職、あらゆるさまざまな事件を起こし、くだらない娯楽に群
がり、嗜好に溺れながら、私たちの貴重なエネルギーをただただ無駄
に浪費しています。
自分自身がまず、自我的抑圧から解放され、自由のもと、愛に溢れて
いなければ、政権を変えたり、改革を唱えたり、対策や規制を設けた
り、論証を並べ講じてみても、たいした変化はないでしょう。
それではあちらこちらの傷に上からテープを貼ってごまかしているだ
けで、「私」は相変わらず歪みと亀裂を起こしているに過ぎませんし、
そんな状態では世界に全的調和が生まれることもありません。人類は、
地球、そして宇宙にダメージを与えるだけ与えて自滅する破壊的存在
として終わるのでしょうか?
その事実の危うさと、生命として愛の欠如を痛烈に感じたら、今から
私たちはどう生きるでしょうか? その全てを見透すことのできる精
神の変容が次々と、一人ひとりに起こることが必要なのではないでし
ょうか?
それには早いも遅いもありません。世代を経るような、長い時間もか
かりません。それは実際に今、あなたが自分の鱗を見るか、見ないか
だけなのです。
