ではここからは具体的に、私たち自身それぞれについてを見てゆくこ
とにしましょう。あなたは友人、恋人、家族、同僚、隣人と、普段ど
ういう関わり方をしているでしょうか?
相手に対するいろいろなイメージや記憶、理想や、期待を持ち運びな
がら、いつもあなたの思考を通して関わってはいませんか? 今、そ
の関係に、愛はありますか? もし愛が意図的につくりだせず、自然
なものであるのなら、それを感じるには、私やあなたという自己は、
消えていなくてはなりません。
「えっ‥!?」と思いますか? そう思う私こそが自己であり、自我な
のです。
私というのはいったい誰で、何なのでしょう? 感情を抱き、考え、
行動するのが人間だとされているようですが、他の人とは違うとはっ
きり区別している「私」とは、はたして何者なのでしょうか?
それはただ肉体のことでしょうか? 肉体は生命ある限り、それなり
に機能し続けますが、では心や精神といったものはどうでしょうか?
それともよく心身相関といわれるように、それらが融合してできてい
るのでしょうか?
ここまで一緒に見てきたように、心や精神といわれている思考や感情
は、個々人の記憶データから、その時の状況に応じて生み出されるも
のです。喜怒哀楽などの反応が、他の人々と一致することが度々ある
かもしれませんが、やはりそれらは私的な視線や、立ち場からのもの
でしょう。
しかしまた感情というものの中には、突如いきなり沸き起こってくる
ような、私の中で重要な位置を占めながらも、実は自分でも何だか不
可解なものがあることについても認識してはいないでしょうか?
ではここで、これまでにまださほど触れてきていない、恐怖や心配、
攻撃性や、欲望などについて調べてみることにしましょう。
まず、恐れや心配とはどのようなものでしょう? 私たちは常日ごろ、
周りからどう思われるだろうかと人の目が気になったり、何かにビク
ビクしたり、ある特定の状況に置かれたり、何かを想像すると苦痛だ
ったり、緊張を伴って、ひどく落ちつかなくなることがあるのではな
いでしょうか?
そしてそう感じるのは不快で、嫌なものなので、そこから逃げようと
して、何かで気を紛らわせたり、我慢したり、その感情ごとまるまる
心の奥へ深くしまい込んだりしてしまいます。
しかし、あえてそれをきちんと掘り起こすことは、私自身を知るため
にはどうしても不可欠なことなのです。それを避けようとして気晴ら
ししたり、ごまかしてみたり、何かの習慣に身を置こうとするのは、
私の思考です。また隠したり、気づかないふりをするのも、同じ思考
のずるさ、逃げ、あるいは鈍感さでもあるのです。
私たちはある状況に遭遇し、少しでも腹がたったり、イライラしたり、
悲しかったり、淋しかったり、ショックだったりするような否定的な
感情を持ち、一度それが記憶されると、再び同じことが起ころうとし
ている時、また思い出させるような要素に会う時、そこから回避し、
自分を守ろう、安全を求めようとします。それは思考を介した、自己
防衛システムなのです。
心配や恐怖というのは、いわば私自身の不具合さや不安定さ、または
すでに持ってしまった傷から逃れたり、敵に備えるために、その動き
を察知するセンサーのようなものではないでしょうか?
突然の危険から身体をかばい、生命を守るために作動するのであれば、
それは有機的生存においての適応といえるでしょう。
が、私の思考やイメージから、それが沸き起こってくると、むやみに
緊張したり、誰かを疑ったり、何かに頼ったり、意地を張ったり、我
慢さえすれば‥と思うようになります。また防御や虚勢を張ったり、
怒りや悲しみを伴って、周りに攻撃的になってしまうのも、すべては
私、自己を守るためなのです。
これは全部、思考によって行われている反射的な動きなのですが、そ
こからまたどんどんと自己閉鎖的に考え、自我を強めることになり、
自分の安全を必死に守ろうとすることで、またさらに別の恐怖や、独
自の回避パターンをつくってしまうことにもなりかねません。
例えば、私を主軸にものを見ていると、独りきりでいるのはただただ
不安で、とても淋しく感じるものです。そこで私は誰かといることを
求め、またその相手に期待を寄せることになります。甘えたい、守っ
てほしい、優しくしてほしい、褒めてほしい、慰めてほしい、安心さ
せてほしい‥きりがありませんが、それが頼り、もたれかかる、依存
の最初のきっかけでしょう。
では、その思いを寄せる相手が、あなたの期待に応じられなかったり、
まったく答えてくれなかったり、または目の前からいなくなってしま
うとどうでしょう?
支えていたものがなくなった、自分は何かを失ったと感じ、空しく、
虚ろな気分から自己の殻に閉じこもったり、そこから逃げようとした
り、気持ちをごまかしたり、自分を責めたり憐れんだり、相手を批難
したり嗜めたり、もしくは自制しすぎて無感覚に陥ってしまったり‥。
失望によって、感情は大いに乱れるのではないでしょうか? それと
もまったく平気でしょうか?
そして期待される側も同じです。私を主軸にそれに応じていれば、そ
のうち反り返るように耐えがたいプレッシャーを感じるようになって
きます。イライラが続き、その苦痛から逃れたいがために、抵抗した
り、無視してみたり、ある日突然、爆発してしまったりします。
また一方、そのまま相手の期待や自分の理想に従って、実際の気持ち
を偽り、我慢したり、頑張ったり、努力して、無理をするとどうなる
でしょう? それは責任ある関係として、また愛として、讃えられる
のでしょうか?
しかし当然、そのような不自然な行動は、必ずどこかに歪みをもたら
します。そもそも「私」からの視界は限られているのです。好き嫌い
や偏見、先入観、自惚れ、人によく見せたい虚栄心や、見返りを求め
る動機を隠し持っていて、そこには、独りよがりな自己満足の追求、
何かを達成したいという欲求が、常に漂っているのです。
ところで愛は、自然な調和のもとに存在するのではないでしょうか?
それは生きて、動いているのですから、誰かや何かに執着したり、反
対に無頓着すぎたり、自分の信念に固執したり、暴力や威圧的に支配
するのであれば、それはまったく愛ではありません。
また無理強いや、ごまかし、鈍感さというのは、知覚の麻痺まで及ぼ
しかねません。そうなるともう自分の反応パターンや習慣をはっきり
と認識できずに、心身の不調にも気づけず、身体がつい勝手に動いて
しまい‥、結局はその鈍感の質をもっともっと強めていくのです。
それは習慣化するドラッグのような依存効果をもたらす、喫煙、飲酒、
娯楽、嗜好品、快楽、名声、金銭への欲求などなど、その全てがあて
はまります。思いあたる節はないでしょうか? その実状にどれだけ
お気づきでしょうか?
なぜあなたはそれらを自分の習慣としているのか、深く深く探ってみ
たことがあるでしょうか? それはいわゆる欲望‥というものとして
通常扱われていますが、やはりそれには自我、「私」が大きく絡んで
います。
もちろん習慣だけでなく、仕事や生活、あなたに関わる全ての行動に
おいて、自分がなぜそうするのか、なぜそれをすることを望んでいる
のか、それを当たり前だからとか、楽しいからとか、気分がいいから
とか、本当は良くないけれどしょうがないから‥と当たりさわりのな
い言い訳だけで終わらせてしまわずに、しっかりと見つめ、突きつめ、
確かめてみたことがあるでしょうか?
それはあなたにとっての必要でしょうか? もしそうなら、なぜ必要
だと思うのでしょうか? そこには利己的な動機や、矛盾するような
思考などが横たわってはいないでしょうか?
私たちの誰にでも、つい何かに流されてしまう傾向性が内に潜んでい
ます。なぜならそうすることの方が簡単で楽だからです。パターンに
はまることを思考は都合よく安全や安定だと勘違いして、知覚麻痺を
引き起こしてしまうのです。
ですから、本当にいつも覚めて気をつけていないと、物質や情報の過
剰でかつ片寄ったこの世の中では、興味が掻き立てられれば、すぐに
流されてしまい、またもや思考に何かを学習させ、それが快楽となり、
さらに逃避や思いこみの輪がつくられるのと同時に、習慣もまた塗り
重ねられてしまうのです。
実は私の習慣、欲望、願望のほとんどが、「私」に隠れ住みついてい
る<恐怖>からの逃避なのだと、お気づきになるでしょうか? それ
は実際、自分の内側を深くまで覗いてみなければ、解らないでしょう
が、つまりは自分の感情や思考に、実は自分が支配されている‥、そ
れが「私」という存在なのです。
何かを抑圧している限り、何かから逃れようとしている限り、「私」
という自我からの解放も、もちろん自由もありません。それを見るこ
とに抵抗があり、また恐さや辛さを感じると思うかもしれませんが、
自分から逃げずに、じっくりとそれに正面から向き合ってみることは、
愛には何より不可避なのではないでしょうか?
自分の内に隠れている恐怖や欲望を発見し、なおかつその根本を突き
つめて理解するには、日常の立ち振舞いにおいて、自然にありのまま
でありながら、思考を介入させずいることです。
理想的なイメージに沿って修正しようとしたり、良いや悪いの一切の
判定、自分好みでの選別もせずに、いつもいつも気づきながら、自分
の身に起こるままをしっかりと見据えること‥
そこにもまた、瞑想が伴うことでしょう。
