ではどうか今一度ここで注意して、その真髄を見てみましょう。過去
に出会った経験というのは、今ではもうすでに不確実な記憶に過ぎず、
どうしたって今目の前の現実、真実とは一致しないことはすでに見ま
した。
ですから、きちんと覚めてそれに立ち会うには、無駄な思考‥くちゃ
くちゃとガムを噛んでいるような、絶えまなくあれやこれやと思いめ
ぐらせるような行為は、消えていなくてはなりません。瞬時瞬時、常
に目覚めているならば、そこに夢を見ている暇はないのです。
そして身体的に健康な脳であれば、それは目覚めながらも、夜間熟睡
している時と同じようにくつろいで、快活に機能することができます。
ただし睡眠中と大きく異なるのは、そこにはっきりとした知覚があり、
意識自体にも気づいている、刻々とした敏感さにあるということです。
脳にとってそれはニュートラルな待機状態です。エネルギーは種火の
ようにきちんと保たれており、いつでも必要な時に、機敏かつスムー
ズに思考を働かせることができます。そのように、ものごとに全的に
気づいている状態こそ、脳本来の自然で有機的な姿であり、調和とい
うものなのです。ですからそれが疲れをもたらすことはありません。
何かを感じたり、考えたりして思考が生まれることがあっても、状況
的に必要でなければ、さらにそれらを膨らませることなく、ただ起こ
るがままに、気づいています。するとそれらは立ち止まることなく通
り過ぎていき、そこには憶えておこうとか、表現しようとか、誰かに
それを伝えようという意志や、時間に触れることもなく、おしまいに
なります。
これは、いわば瞑想の状態です。瞑想はただ座ってじっとしていれば
為せる行為なのではありません。自分の思考や感情、そのすべてに対
する全的な気づきと、そして理解というものがなければ、それは起こ
りえないのです。
一般的に瞑想は、集中やコントロール、何かをくりかえし唱えたり、
イメージを泳がせることとされているようですが、集中や制御とは、
意図的に何かを排除し、無視し、制限し、殺すことです。また言葉や
イメージをはじめ、意図することそのものが思考によるのですから、
それは自分の頭の中でだけ展開する、思考の遊び、ごっごでしかあり
ません。
そうではなく、それは思考なく、全的に目覚めている状態であり、断
片に陥らず、内的にも外的にも起こるものごとの全体を刻々と把握し、
理解してゆく、終わりのない流れなのです。
その流れ、気づきや理解というのは、生活の中でいつでももたらすこ
とが可能なはずです。そこにはすでに、瞬々刻々における身体感覚は
もちろんのこと、自分の思考や感情の動き、周囲との関係性、そして
全体的な調和への大きな関心があるのです。
書かれている文章をただ流し読むのではなく、どうぞ実際に試してみ
ましょう。脳に情報をインプットするだけでは、それこそ知識に留ま
り、別の人に言葉で伝えることはできても、それはただの物識り、偽
もので終わってしまい、全く意味がないでしょう。
それをくぐらなければなりません。あれこれ思わずに、ただそれを試
してみるのです。そうすると、何が自分の瞑想をさえぎる障害となっ
ているのかが解ることでしょう。
愛について話していたのに、何だか随分と方向がそれていっていると
感じるでしょうか? もしほんとうに私たちが一緒にこれを進めてい
るのなら、そう思ったり感じたりする隙はないはずなのですが、うわ
っつらだけを追っていると、自分の持っている何かの知識と、ここに
書かれていることを比較してみたり、注意散漫になり、思考も動きや
すくなります。
では、再び見つめなおしてみましょう。思考あるところに、愛はあり
えるのかと‥。
真の愛に、言葉、記憶、時間、知識、説明、意志、確認、努力など‥
つまりその全ては思考から生まれるものですが、それらがはたして必
要でしょうか?
時折、愛を感じても、一瞬後に消えてしまうのは、そこに思考が介入
するからではないでしょうか? たとえそれを物品や言葉に変換した
り表現してみても、それは事実当のものではありません。
愛を感じたからといって「愛してるわ」などと口にしてみても、その
時はすでに微妙なズレを感じるのではないでしょうか? ほんとうに
云う必要があるのでしょうか? あるいは言葉にしながら、実はその
空虚さや欺瞞に気づいたりはしていないでしょうか?
巷でいう愛の誓いというのも、ただ互いに束縛し合うための意志確認
や決意表明、持続願望に過ぎないので、それこそ愛とは全くの別物で
しょう。
愛を感じた時はその瞬間に、ほほえみ、抱きしめ、涙し、歌い、音を
奏で、舞い、踊ればいいのです。それで充分ではないでしょうか?
それは頭からではなく、胸の奥、身体の内側から沸き上がるものなの
ですから、自然のなすまま、溢れるがままに振る舞えばいいのです。
しかし私たちはそのような身体の使い方でさえも、すっかり思考に支
配されてしまってはいないでしょうか?
さぁ、どうやら思考というのは、愛が生まれるのにも、育むのにも役
立たないようです。あえて記述するならば、愛があればそこにあるの
はただ共感、誰かや何かと通じ合うような、自然と伝わってくるもの
への瞬間の感受であり、おそらく私一人きりでも、一方的であっても
成り立たないものなのです。
愛は、自然の生きた現象です。それは予測したり、飼い馴らしたり、
記念として溜めることも、知識にあてはめることも、その応用なども
できません。ただ、今、あるかないかです。またそれは、今そこにあ
るのを感じられるか、感じられないか‥。つまりは、あなたが今この
瞬間、きちんと覚めてここにいるのか、いないのか‥ということです。
では私たちはたった今、それを感じているでしょうか?
急ぐことはありません。ここで少し静かに止まってみましょう。まず
頭を空っぽにして、姿勢を楽にしたら、背筋を無理なく伸ばし、目を
閉じて、口と肺だけの浅い息ではなく、鼻腔から腹腔までずっと深く
ゆっくりと、そして全身、からだ中を通り抜けるような呼吸をしてみ
ましょう。
‥さて、何が聴こえてきますか?
